どうも、はちごろうです。

愛用していたポータブルMDプレーヤーが故障したので、
秋葉原にあるソニーのサポートセンターに行ってきました。
修理は1週間から10日で出来るとのこと。
やっぱり自分で直接頼みに行った方が確実ですね。
さて、映画の話。

「J・エドガー」

米連邦捜査局FBIの初代長官エドガー・フーバーの生涯を、
クリント・イーストウッド監督とレオナルド・ディカプリオ主演で描く。
1919年。左翼急進派による司法長官宅への爆弾テロ事件が発生。
すぐさま現場に駆け付けた司法省職員エドガー・フーバーは
地元警察の制止を振り切り現場捜査を強行する。
その姿が認められたフーバーは新設された過激派対策課を任される。
手段を選ばず犯人逮捕に全力を尽くしたが、
その強引な捜査手法の責任を取り司法長官が更迭される。
後任の司法長官により新設される司法省捜査局の局長に任命されたフーバーは、
他の政治家に介入されない司法長官直轄の組織とすること、
捜査官は完全実力主義で採用することを条件に初代局長に就任する。
犯罪者の指紋照合や科学捜査など革新的な捜査方法を確立する半面、
政治家の介入を阻止するため有力政治家宅などの盗聴などを行い、
膨大な個人情報を握ることで米国を陰で操る実力を堅持していた。
一方、彼がプライベートで心を許していたのは私設秘書のヘレン・ガンディと
直属の部下で長らく愛人関係だったクライド・トルソンの二人だけ。
そんな彼の行動の根底には母親アニーとの共依存ともとれる関係があった。



実像を「見せない」人物の自伝


世界的に有名な米連邦捜査局FBIを設立した張本人の自伝ということで、
彼がどのようにして米政府や米社会に介入していたのかという側面や、
その行動の根底にはどんな思想があったのかなど、
興味をそそる要素は少なくないのだけれど、
残念ながら出来あがった作品はあまり面白い出来とは言い難い代物でした。
この作品は、フーバーが晩年に差し掛かった60年代に
自身の回想録を執筆するために速記者を雇って口述筆記をする姿と、
それによって語られるフーバーの過去とを交互に紹介する形を取っているのですが、
この回想録がこのフーバーという人物を理解する上での障害となっている。
実はフーバーにより語られた彼の物語には自身による虚偽や誇張が多く、
彼の死後、ヘレンやトルソンなど関係者の証言などで訂正された事柄が少なくない。
例えばマスコミには彼自身が現場で陣頭指揮を取っているように報道され、
さながら国民には彼が「ヒーロー」のように印象付けられていたのだが、
実際には現場で犯罪者を捕まえたことなど一度もなく、
そのことが明るみになると逆に実動部隊の捜査官を閑職に追いやったり。
大西洋を始めて飛行機で横断したリンドバーグの長男誘拐事件では
リンドバーグ本人に気にいられたと豪語しているが、
実際にはリンドバーグの自宅に出向いても会ってもくれなかったなど。
つまり、彼の実像に迫ろうとしても肝心の彼自身の証言が信用ならないわけで、
映画自身もどのエピソードを信じていいいのか判断に苦しむわけです。
そんな人物であるだけに彼の逸話は虚実が入り混じっているのだけれど、
今回イーストウッド監督はあくまで裏が取れている事実だけを選び、
推測の域を出ていないエピソードは極力排除したそうだ。
だからこの作品で彼に感情移入することも難しく、
また彼に関する新事実が明らかになることもなく、
正直観ていてちょっと退屈に感じたことは確かです。



マイノリティが自身のアイデンティティを描くことの功罪


FBI長官としてのフーバーの行動があまり描かれない半面、
マザコンで、吃音を克服した過去などの彼の私生活の部分、
とくに同性愛者だったことにこの作品はかなりの時間を割いています。
もちろんその、こうした社会的にマイノリティな立場を隠して生きている、
強固なコンプレックスを抱えていたことの裏返しとして
FBIを絶対的正義を遂行する組織に作り上げようとしていたんだろうけど、
こうしたプライベートな部分の描写の長さに反して、
歴代政治家のプライベートを違法な手段で入手し
「陰の実力者」としての地位を堅持し続けたという、
「公人」としてのフーバーの姿はあまり描かれていないわけです。
こうした脚本になってしまったのにはちょっとした訳がありまして、
今回脚本を担当しているのはダスティン・ランス・ブラックという人。
彼はガス・ヴァン・サント監督の「MILK」という作品も担当しているんだけど、
これはアメリカで初めて同性愛者であることを公表して政治家になった
ハーヴェイ・ミルクの生涯を描いた作品でした。
ダスティンはミルク同様、同性愛者であることを公表している人で、
彼にしてみればミルクは当時の米社会に根強くはびこる同性愛差別と闘い、
自分たちの地位向上に貢献した同胞、つまり憧れのスターなわけです。
僕は「MILK」という作品には主人公を客観的な視点で語る距離感が
いささか欠けているように感じたんですが、
本作の場合も主人公のフーバーが同性愛者だったという側面だけが
やたら強調されているように感じてしまったんですね。
おそらくこの脚本家は「同性愛」を描くことがライフワークなんでしょう。
同性愛者をモチーフにした台本を書きたい人なんだと思うんだけど、
登場人物の同性愛嗜好を描くことに執着しすぎて
冷静な距離感が今回もやはり取れなかったのではないかと感じました。
おそらくこの人の脚本には異性愛者から見た冷静な視点というか、
異性愛者のスクリプトドクターが必要なのかもしれません。



「演じたい役」と「望まれる役」との溝


さて、本作の売りの一つが主演のディカプリオの熱演。
主人公フーバーの若き日から晩年に至るまで
その生涯をたった一人で演じ切っていたわけなんですが、
残念ながら彼にはこの役は向いていなかったと思いました。
本人は「タイタニック」で世界中の女性をとりこにしてから
その地位に安住せず性格俳優を目指して日々挑戦しているわけだけど、
彼にとって致命的なのは彼が童顔に生まれてしまったことかもしれない。
たとえ汚れ役でも役者としての成長を追い求める志の高さは立派だけど、
やっぱりどう頑張って老人を演じようとも
特殊メイクした若者にしか見えないんですよ。
まぁ、特殊メイクの出来に問題があったのかもしれないけど、
ディカプリオ本人がやりたい役と出来る役、望まれている役との間の溝を
本人がどう折り合いをつけていくかというのが
今後のキャリアの課題なのかもしれません。

これがもし陰謀論好きのオリバー・ストーンあたりが監督してたら、
事実に即しているかどうかは別としても
スキャンダラスなエピソード満載のスリリングな作品になったと思うんだけど、
イーストウッド監督により誠実に事実だけ集めて構成されたこの作品は
真面目な作品ではあるけれどやはり物足りなかったですね。