どうも、はちごろうです。

何から書いていいのか分からないから、思いつくままに書く。


Jリーグが発足した1993年、深夜に伝説的演芸番組が放送された。

「落語のピン」

談志師匠を中心に、春風亭小朝、立川志の輔、
そして春風亭昇太、立川志らく、立川談春、柳家小録(現・花録)、
林家たい平、橘家文吾(現・文左衛門)、三遊亭新潟(現・白鳥)・・・
現在のホール落語の盛り上がりを担う若手たちが多数出演していた。
毎週、談志師匠の落語を見ることができる。
これだけでも贅沢な番組であった。

当時、僕は日中は家で仕事をしながら夜は大学に通う生活をしていた。
そんななかでラジオから流れてくる演芸番組から落語を知り、
志ん朝師匠や小三治師匠のCDを買い集めていたまさにそのとき、
この番組が放送を開始したのである。
当然のごとくハマり、毎週ビデオに録画保存していった。
以来、仕事中に何度も何度もそのビデオをデッキに入れたのである。

その番組で、師匠の「鼠穴」を聴いたときの衝撃は忘れられない。
貧しい農民の竹次郎が町に出て成功している兄の元を訪ね、
兄のように商売を始めたいから元手を貸してほしいと願い出る。
そんな竹次郎に兄が渡した元手はたったの三文。
竹次郎は奮起してその三文から商売を始め、
十年で立派な商売人となり兄の元に元手の三文を返しに行く。
兄は十年前の非礼を詫び、そこに深い考えがあったことを語る。
そしてその夜ふたりは酒を酌み交わすが、
寝静まった夜遅く遠くで半鐘の鳴る音が・・・

たった一晩の火事により全てを失った竹次郎の人生が
あっという間に転落していく。
そしてその運命にさらされ、一人の男が世の中に絶望し、
ついには生きることを諦めていくその過程は
「落語は楽しく笑えるもの」という僕の概念を全て吹き飛ばした。

それ以来、僕は立川談志という人物に傾倒していく。
仕事の関係上、高座に行くことが叶わなかった代わりに、
師匠のCDを、ビデオを、本を可能な限り買い集めた。
師匠が物を考え、語るときに手を前に出すクセまで、
自然と身についてしまったのである。

「落語とは人間の業の肯定である」

人間、己の欲望に忠実でいると社会が成り立たなくなるから、
理性や常識、法律というものでその欲望を抑えつけているが、
落語はその人間の欲望を肯定し、赦す芸能である。

「落語とはイリュージョンである」

人間の行動や思考は全てを論理的に説明することはできない、
その説明のつかない、どうにもならない人間の姿、
イリュージョンとでもいうような状況を描く芸能である。

常に落語という芸能と、そこに描かれる人間を描き、赦す。
そのために様々な芸能を研究し、精通していた。
歌舞伎、講談、浪曲、小唄、端唄、歌舞音曲の古典芸能から、
昭和歌謡から映画に至るまでその分野は質・量ともに多岐にわたった。
それだけに限らず、「笑点」の初代司会者などテレビでの活躍や、
参議院議員に立候補し、タレント議員のはしりにもなった。
落語協会を脱退し、落語立川流を設立。
寄席に頼らず独自の方法で弟子を育成していった。
その突飛な行動で周囲の人間を振り回すことも多く、
親交のあった人間はたくさんのエピソードを持った。

権威にこびへつらうことなく常に疑問と正論を突きつけ、
常に己の落語に満足せず、永遠にたどり着けない完成形を求めた。
その姿は「表現を志す者」全ての心に影響を与え続けた。
それだけに「信者」とも言えるほどの熱狂的な信奉者を生む一方、
毛嫌いする同業者の存在も多数抱えていた。
だが「談志の影響下にあった」という点でその両者は共通する。
それだけ存在を無視できないカリスマ性があったのである。

何か事件があったとき、「師匠ならどう考えるだろう?」と考えることがある。
そして今年ほど、師匠の不在を残念に思うことはなかった。
師匠だったら、大震災を、その後の政治の混迷を、原発問題を、
どのように処理し、結論付けたのか?

またひとり、昭和を代表する、いや日本を代表する天才がこの世を去った。
そしてまた、日本人は少しだけバカになった。