どうも、はちごろうです。

ここ数日、ちょっとだけ暑い日々が続きますね。
30℃前後で日差しもなく、ただちょっと蒸す。
クーラーを使うべきかどうか微妙な感じです。
さて、映画の話。

「コクリコ坂から」

スタジオジブリ最新作。監督は「ゲド戦記」の宮崎吾朗。
東京オリンピックを翌年に控えた1963年。
海を見下ろす坂の上にある下宿屋「コクリコ荘」。
高校二年生の松崎海は祖母から下宿屋の切り盛りをまかされていた。
大学教授をしている母親は海外出張が多く、
船乗りだった父親は朝鮮戦争で行方不明に。
以来、海は父親の無事を願って信号旗を掲揚するのを日課としていた。
ある日彼女は、高校の学校新聞「カルチェラタン新聞」に
自分をモチーフにした一遍の詩が掲載されていることを知り、
それがきっかけで新聞部の男子学生・風間俊と知り合いになる。
学校では新聞部も所属する文化部部室棟、
通称「カルチェラタン」を取り壊す計画が持ち上がっており、
新聞部はその急先鋒として反対運動を続けていた。
海は俊たちの意見に賛同。他の女子生徒とも協力して
汚れ放題で魔窟のようだったカルチェラタンの大掃除を始める。
一方、急速に惹かれあっていく海と俊だったが、
二人が血の繋がった兄弟かもしれないという疑いが持ち上がる。



観客が求める「ジブリらしさ」とは?


何かと注目を集めるスタジオジブリの新作ということなんですが、
やはり監督があの宮崎駿の息子・宮崎吾朗ということで
彼が監督をすること自体からすでに賛否がある。
初監督を果たした「ゲド戦記」は出来のまずさももちろんだが
なにより彼が宮崎駿の息子であるということでずいぶん叩かれた。
アニメーションの現場経験もない、ずぶの素人にいきなり監督を任せた
鈴木敏夫プロデューサーもどうかしてることは確かなんだけど、
そんな彼に過度の期待をした観客の方もどうかしてると僕は思う。
ではなぜ彼がジブリの後継候補になる道を選んだのか?

まずその前に、観客がジブリに求めるものとは何かを考える。
「リミテッドアニメとしての圧倒的な作画能力」と
「現代社会に対する鋭いメッセージ性」、
この二つの要素が密接に絡み合った状態が
多くの観客やファンが考える「ジブリらしさ」だろう。
そしてジブリは宮崎駿・高畑勲という巨匠二人を擁して
上質なアニメ作品を量産し続けてきたわけだが、
この二人の監督は先に挙げた二つの要素を兼ね備えてはいるものの
実はその得意分野は正反対である。
宮崎駿はそもそもが優秀なアニメーターであり、
その作画能力、また他のアニメーターの管理能力には優れているが
実は物語を作る能力はあまり高くない。というか、意欲に欠けている。
それが如実に出てしまったのが前作の「崖の上のポニョ」。
あれはまさに自分の得意分野であるアニメーションの快感だけを追求し、
大人の観客の鑑賞に堪えるだけの物語は提示されなかったのである。
一方、高畑勲はその逆で、もちろん作画能力も高いのだけれど、
それ以上に批評精神、そしてそれを物語に仕上げる能力に長けている。
その能力がいかんなく発揮されたのが「火垂るの墓」であり、
「平成狸合戦ぽんぽこ」だったりするわけです。
つまり「アニメとしての楽しさ」を宮崎駿が、「メッセージ性」を高畑勲が担うことで
スタジオジブリという会社はその両輪を廻してきたわけである。



宮崎吾朗が監督をする理由


ところが「となりの山田君」の興行的失敗により高畑勲が一線を退いたことで
宮崎駿に高畑勲的な要素が要求されるようになるわけだが、
2000年代に入って作られた「千と千尋の神隠し」も「ハウルの動く城」も、
アニメとしてのレベルは高いがストーリーの質やメッセージ性が乏しいため、
結果的に「宮崎駿も老いたな・・・」なんて囁かれるようになる。
だがこの判断は完全に間違っていて、宮崎駿は全く変わっていない。
本来宮崎駿は物語を語るより画を動かしたくてしょうがない人なので、
むしろ彼ににメッセージ性を求める観客の方がどうかしているのである。
つまり、いまのジブリが、そして観客が本当に必要としているものは
実は高畑勲が得意としてきたメッセージ性のある物語なのである。
そういった点から考えると、宮崎吾朗という人は実はとてもクレバーで、
前作の「ゲド戦記」を改めて見直してみて思ったんだけど、
彼は例え外野から「宮崎駿の後継者に」と期待されようが一切構わず、
むしろ高畑勲的なメッセージ性重視の作品作りを目指している。
そういった意味ではいまの観客が潜在的に求めている「ジブリらしさ」を
実は彼の作品こそが提供しようと努めているように思う。



鈴木Pが吾朗に監督を任せる理由


宮崎吾朗が監督をする理由はもう一つある。
高畑勲的なメッセージ性の強い、物語の構造がしっかりした話が必要なら、
なぜ高畑勲自身が再びメガホンを取らないのか?
「山田君」の興行的失敗が原因なのか、それはわからない。
(実はジブリの次回作は高畑さんが監督するなんて噂もあるけど)
だが現時点で高畑勲に監督をさせられない以上、
誰か他の、欲をいえば若手に監督をさせればいいわけだが、
せっかく若くて優秀な才能を鈴木プロデューサーが連れてきても
当の宮崎駿自身が監督方針に口を出してしまい
結局その若手を追い出してしまうのである。
(その典型的な例が「ハウルの動く城」での監督交代騒動なんだけど)
といったようなわけで、現在のジブリで早急に必要なのは
実は「アニメ監督として優秀な人材」というのももちろんなんだけど、
それ以上に「あの宮崎駿の文句をはねのけられる人」だったりするわけです。
つまり、宮崎吾朗に監督を任せるのはそういった事情もあるわけです。



通好みの佳作になる可能性


では今回の「コクリコ坂から」はどうだったのか?
結論からいえば、前作のダークでシビアな世界観から考えれば
本作は地味ではあるが比較的穏やかな青春映画になっているし、
コクリコ荘で海が下宿人に用意する食事の調理シーンや
カルチェラタンの日常の風景が非常に丁寧に表現されているので
「耳をすませば」に匹敵する佳作として愛されていく可能性はある。
だが時代背景がかなり古いために設定年齢もかなり高めで、
主人公の海や俊と同世代の10代の客には
その行動がちょっと理解できない可能性も高い。
例えばあの汚い部室棟の存続に俊たちが力を入れるのはなぜか?とかは、
自分たちの日常に当たり前に存在する自分の居場所が
これからも当たり前に存在し続けることに疑いを持たない最近の若い子には
あの震災後とはいえ、やはり容易には理解できない心境だろう。

ただ、やはり脚本には問題点もかなり多い。
まず主人公の海は劇中では「メル」と呼ばれているのだが
このニックネームの由来が一切説明されない。
(なんでもフランス語で海を「ラ・メール」というらしい)
それ以前にタイトルにある「コクリコ坂」の由来もやはり説明されていない。
次に、主人公の海が初めて俊を意識することになる学校新聞に載った詩。
これについてもきちんと作中で内容が触れられていない。
だから彼女がその詩に対してどう思ったかも描かれず、
二人が惹かれあう過程が唐突に感じたことも確か。
さて、物語は海たちが通う学校の文化部部室棟の取り壊し問題、
そして海と俊の恋愛と出生の秘密という二つの物語が
同時並行で語られていくわけだが、
例えば部室棟取り壊し問題には主人公たちの敵役である
取り壊し賛成派の人間やその理屈が語られず、
また海と俊の恋愛問題も、その原因となる時代背景が
あまり丁寧に描かれていないため、
結果的に物語の解決にカタルシスが感じられないのである。



確かに作品自体の問題点も多いし、
吾朗監督自身が脚本を書いていないことも考えると、
この作品がジブリの今後にとって良い材料になるとは言い切れない。
だがジブリの前作「借りぐらしのアリエッティ」の米林宏昌監督が
「演出も出来るアニメーター」という宮崎駿タイプのアニメーション作家として
順調なスタートを切ったことを考えれば、
「絵でメッセージを表現する作家」という高畑勲タイプの後継者として
吾朗監督がその座に収まることは僕は期待していいと思うし、
そう感じさせるだけのクオリティはあると僕は感じました。
ただ、そのためには一刻も早く自分のテーマを投影できる
「自前の物語」を用意する必要があるんだけどね。