どうも、はちごろうです。

昨日今日と涼しいですね。朝なんて肌寒いくらいで。
個人的には暑いところで仕事してるので楽でした。
さて、映画の話。

「ハリー・ポッターと死の秘宝 part2」

J・K・ローリング原作の大ヒット児童小説の完結編。
選ばれし若き魔法使いハリー・ポッターと
闇の帝王ヴォルデモートとの最後の戦いが描かれる。
ヴォルデモートが自らの魂を封じた分霊箱を探すハリー達。
そのうちの一つがヴォルデモート配下の女魔法使い、
ベラトリクス・レストレンジが所有していることをを突き止めたハリーは
グリンゴッツ銀行に侵入してレストレンジ家の金庫に侵入する。
なんとか分霊箱を盗み出すことに成功したハリーは
残りの分霊箱がホグワーツ魔法学校にあることを突き止める。
だがホグワーツはすでにヴォルデモートの監視下にあり、
ダンブルドア校長を殺したスネイプ教授が校長に就任していた。
ハリー達は何とかホグワーツに忍び込むため、
ホグワーツ近くの村ホグズミードに向かう。
そこでハリー達はダンブルドアの弟であるアバーフォースと出会う。
彼から唯一残ったホグワーツへの秘密の通路を教えてもらったハリー達は、
そこを通って仲間たちの待つグリフィンドール棟にたどりつく。
だがハリーがホグワーツに戻ったことはヴォルデモートも知ることとなり、
ついにハリー達とヴォルデモート率いる死喰い人達との
全面対決が行われるのだった。



客を「選ぶ」娯楽映画


全世界で大ヒットを記録したファンタジー小説の人気シリーズで、
当然ながら映画版も記録的な成功を収めているんだけど、
実はこの作品、映画だけ観ていてもわかりません。
なにしろ原作は分量がハンパじゃない程多いので
(最終巻「死の秘宝」に関しては上下巻合わせて1100p以上)
当然のことながらかなりのエピソードを削って作られてる。
そのため、原作を読んでいないと分かりにくい個所も多々あり、
そういった意味ではこのシリーズは「観客が原作をすでに読んでいる」ことが
前提条件として作られている傾向がある。
だから「原作を読んでいる」人と「映画しか観ていない」人では
その理解度や思い入れの深さ、そして感想もかなり違ってくるシリーズになっている。
原作を読んでいない外野には、これを製作者側の「甘え」とする見方も出来るんだけど
こうした「わからないやつは置いていく」という潔い決断が出来るのは
膨大な数の原作ファンの存在と、そのファン心理を裏切らないクオリティを
この10年間維持し続けてきたからなんだけどね。

ちなみに、僕とこのシリーズとのスタンスについて説明しておくと、
映画1作目を観てから原作を読み始めて、
それ以降、原作・映画の両方とも観ているという立場。
ただし、この「死の秘宝」に関しては読み終わってから1年経っているので
大ざっぱな展開は覚えているけれども細部はすっかり忘れている。
そういった状態でこの「part2」を観たので
適度に客観的な視点で作品と接した感じです。



作品全体に漂う、良くも悪くも「卒業式」的な感じ


さて、10年に渡ってポッタリアン(原作ファン)を魅了してきた完結編。
なにしろ観客のほとんどはこれから見る物語の展開を
その細部に至るまで熟知しているので、
劇場内はどこか「卒業式」にでも出ているかのような雰囲気。
ハリー、ロン、ハーマイオニーの3人だけでなく、
ネビルが、ドラコが、ジニーが、フレッドとジョージが、
その他多くの生徒役の俳優たちが映画と、そして観客と一緒に成長しているため、
共に育ってきた仲間、見守ってきた子供たちの成長を
互いに喜び合うような穏やかな雰囲気が漂っている。
ということは、映画の出来が多少悪くてもそこは「あばたもえくぼ」で
全部許しちゃうような雰囲気ともいえる。
まぁ、今回の「死の秘宝」2部作はより原作に忠実に作られているので
映画の出来のまずさはそのまんま原作そのものの出来のまずさなんだけど、
だから原作に対する思い入れが無ければ無いほど
その原作の問題点が非常に気になってしまうわけです。



いろんな意味で、「魔法」を扱うことの難しさ


一般的に「魔法使い」が出てくる物語というか、
「魔法」を使う者が出てくる物語というのは、
登場人物が「魔法」を使えるが故にざまざまな問題が生じる。
例えば、そもそも魔法使いの力量の差はどこでつくのか?
この作品でいえば「闇の帝王ヴォルデモートはなぜ強いのか?」
「そんな強いヴォルデモートをなぜハリーが倒せるのか?」
そういった疑問に対し、原作は明確な答えを出していないように思う。
原作にないんだから当然映画でも説明されないわけです。
次に、「魔法」で出来ることと出来ないことの線引きはどこか?
この作品でいえば「分霊箱や死の秘宝は魔法ひとつで探せないのか?」
「魔法で死喰い人から完全に逃げられないのはなぜか?」
また逆に「ダンブルドアはなぜハリー達の行動を予測できたのか?」
「妖精ドビーはなぜあのタイミングでハリー達を助けられたのか?」
「アバーフォース家の秘密の通路はなぜスネイプ達に見つからなかったのか?」
「グリンゴッツ銀行で小鬼に奪われたグリフィンドールの剣を
 なぜネビルが組み分け帽子から取り出すことが出来たのか?」
こうした疑問にも全く説明がなされないわけです。

こうした問題はこと魔法に関したことばかりでなく、
例えば今回の物語でカギとなる「死の秘宝」の一つ、「ニワトコの杖」。
この杖の持ち主に関する説明もかなり大ざっぱだし、
第6作の「謎のプリンス」でダンブルドアが苦労してやっと一つ壊した分霊箱を
今作でハリー達がいとも簡単に見つけ、壊していくことも不可解だったりして、
冷静な視点で見れば問題点がいくつも出てくるわけです。

そしてこれは映画版独自のポカ、というかミスなんだけど、
クライマックスのホグワーツでの魔法対決において
ハリー側とヴォルデモート側双方で死者が出るんだけど、
ハリー側の犠牲者は遺体が残っているのにもかかわらず、
死喰い人が死ぬとなぜか遺体がバラバラに砕けるわけです。
おそらく映像的な見せ場を作ろうとしたからなんだろうけど
これは明らかに整合性を逸脱した改編だったし、
最後のハリーとヴォルデモートの一騎打ちの場面も
原作とは違って魔法力で対決するようなビジュアルになってるから
なおさら「なんで互角に戦えるの?」って疑問に思っちゃうし、
しかも原作では決着がついた後、ホグワーツはお祭り騒ぎ的な盛り上がりになり
長いシリーズが終わった爽快感に浸ることが出来たのに、
逆に「それでもこんなに犠牲者が出ました」ってシビアな描写に変えたため
観終わっても消化不良というか、カタルシスがなかったのも問題でした。



全ては「魔法」のなせる業


ですが、こうした疑問に対するうってつけの答えがこの作品にはある。

「でも、それが魔法の力だから」

つまり、物語で生じることいいことも悪いことも
全て「魔法だから」で片付けてしまえるわけです。
そしてその「魔法」にかかっている者だけが
この作品を楽しめるわけです。

確かに一つ一つのシーンは素晴らしく見えるものもあるし、
各キャラクターの見せ場も確かに魅力的に見える。
それこそ魔法がかかったかのようなシーンもたくさんあるんですが、
そのシーンが素晴らしく見えるのはやはりファンのみ。
まさにハリーの魔法にかかった者だけが見える幻なのかもしれないですね。