どうも、はちごろうです。


大変遅くなりましたが、新年けましておめでとうございます。
今年も不定期更新ですがよろしくお願いいたします。


私は子供の頃から高橋留美子先生の作品が好きで。
「うる星やつら」「めぞん一刻」「らんま1/2」
「犬夜叉」「境界のRINNE」、そして最新作の「MAO」。
40年以上ヒット作を出し続けている業界の現人神の一人なんだけど、
実は最新作の「MAO」、個人的にはあまりハマってない。
個人的な印象としては「犬夜叉」をさらにダークに、シリアスにした内容で、
コメディタッチの作品が好みの私としてはあまり得意ではない。

まぁ、好きな作家の作品でも全部が全部ハマるわけではないしなぁ・・・と
ある程度納得していたんだけれども、
昨年約30年ぶりにリメイクされたTVアニメ「らんま1/2」、
これもやっぱりしっくりこなかったんですよねぇ。
ひとが一番多感な頃とされる10代後半に連載されてて、
原作自体は毎週楽しみに読んでいた記憶もある。
しかも当時の声優陣で再アニメ化したにもかかわらず、
結局途中で観るのを止めてしまったくらい。



最近、これまで何の疑問もなく親しんできたものと
どんどん波長が合わなくなってきている。
これはコロナ渦でこれまでの日常生活が半強制的に休まされたことが、
結果的にそれまでの生活について、好むと好まざるとにかかわらず
見つめなおすきっかけになったことと関係しているように思う。
もうとっくの昔に飽きていたのに惰性で続けていたもの、
本来さほど興味もなく、誰かに勧められて始めたものなのに、
「自分はこれが好きなんだ」と自らに暗示をかけて続けていたものを、
「果たして本当に好きだったんだっけ?」と改めて疑問に感じて
改めて自分の「好み」について精査してみようかなとなってる。


例えば映画や漫画、アニメのジャンルでいえば圧倒的に「コメディ」が好き。
小さい頃からヒーローものとか、アクションとか、スポ根とか、
昭和の価値観でいうところの「男の子向けの作品」がことごとくダメ。
なので、ここ20年くらいハリウッドが作り続けているアメコミヒーローもの、
あれがそもそも自分の性に合っていない。
でも惰性で見続けられたのも、結局は若さのなせる業だったと思う。

また、女性アイドルにハマったこともない。
おそらくこれは「アイドル」というジャンルそのものが性に合わないからだろう。
ま、一番ハマりやすい中学・高校時代がいわゆる「アイドル冬の時代」という、
80年代アイドルブームが終息して、完全に凪の状態だったのも影響してるのかも。

ゲームも、「スト2」や「バーチャファイター」とかの格闘ゲーム全盛の時代に、
「I.Q.」とか「XI」とかのパズルゲームにハマったりしてたし、
「モンハン」「桃鉄」「マリオカート」といった、
誰かと一緒に楽しむゲームにも全くハマらなかった。
これは「ゲームは基本一人でプレイするもの」という思いが強いからだと思う。
だからオンラインゲームは今でも手を出す気になれない。

音楽は割と雑食というか、新旧洋邦なんでも聴く方だけれども、
やっぱりアイドルソングやアニメのキャラソンは苦手。
おそらく、いわゆる「萌え声」ってやつが性に合わないからだと思うが、
ファン向けだからこそ許される楽曲を聴くと
バカにされているような感覚になるからというのもある。

本は、実は子供の頃から読む習慣がなかったけれど、
大学時代にとりあえず活字に慣れるために短編はしこたま読んだ。
でも最近はとんとご無沙汰だし、買ってもほぼ積ん読状態。
おそらく読書自体、そもそもが苦手なのだろう。



そんな調子で、しばらくは自分の「好き」を探る日々を続け、
見つかったものは大事にしていこうと思う。
まさに

 ♪~好きなものは好きと 言える気持ち 抱きしめてたい

ってな感じですね。


ただ、趣味をある種のコミュニケーションツールにしてきた身としては、
「趣味を変える」ということはそれまでの人間関係を手放すことに等しい。
でも歯を食いしばってもう興味のなくなった趣味に時間を割くのか、
それとも誰とも交わらずに貴重な時間を全く自由に使うか、
その二択の間でまだ揺れ動いているのも事実なのだが・・・。
 

どうも、はちごろうです。


10月に公開されたアメリカ映画「ワン・バトル・アフター・アナザー」。
「タイタニック」でおなじみのレオナルド・ディカプリオが、
「ブギーナイツ」「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の
ポール・トーマス・アンダーソン監督と念願のタッグを組んだ作品。
かつて左翼系ゲリラ組織に所属していた男が、
一人娘に迫る危機を阻止するために奔走する話。



「そろそろ映画の感想書く気になったの?前回も結構感想書いてたし」
と思った方、すいません。映画の感想はおそらく今後も書く予定はないです。
前回は「いい映画」の条件について考えた流れで少し書いただけです。
今回はここ数年の映画界について感じていることを書く。
ま、中年映画ファンの愚痴と思って笑っていただければ。



この作品、公開前に監督のインタビュー動画がネットに上がっていたんだけど、
それによると、本作はビスタビジョンカメラという、
60年代に一時期使われた特殊な撮影用カメラを用いて撮影したので、
全編IMAXのフルスクリーンの画角で上映することが可能。
だから出来ることならIMAXの劇場で観てほしいという。


「ビスタビジョンカメラで撮ったからIMAXで」って言われても
大多数の観客には「?」となってしまうわけですが、
これは映画用に撮影された画面の縦と横の比率、
専門用語で「アスペクト比」というやつが関係している。
一応ウィキペディアで調べてみたのですが、
現在発表される劇場用映画の画面サイズは主に3種類に分かれるそうな。

一つ目は「スタンダードサイズ」。
これはかつての白黒時代の映画やブラウン管テレビのような、
縦と横の比率が3:4というサイズ。

二つ目は「ビスタサイズ」。
これは家庭用テレビに対抗して画角を横に広くしたもので、
いまの薄型テレビの画角と同じ縦と横が9:16の比率。
前述したビスタビジョンカメラが使用されたときに登場。

そして三つめは「スコープサイズ」。
ビスタビジョンのサイズからさらに横に広がり、縦横の比率は5:12。


他にもさまざまな撮影用カメラ、撮影用フィルムが戦後開発され、
定着せずに消えていったものも多数あるわけですが、
その辺のことは各自でお調べください。



さて、ではなぜビスタビジョンカメラで撮った映像なのに
「IMAXのスクリーンで観るべき」と言っているのか?

まず、最近特に映画館でもてはやされているIMAX映画について軽く説明。
これはカナダのIMAX社が開発した撮影用カメラで撮られた映像を、
高さだけでも20m前後もある巨大なスクリーンで上映することで
圧倒的な没入感を得ることができる、というのが売り。
それともう一つ特徴的なのはその画角。
現在公開されている映画の大半はビスタサイズか、スコープサイズ。
我々が当たり前のように観ている横に長いタイプですね。
よほどのこだわりがない限り、スタンダードサイズでの撮影はあまり行われてない。
(あ、この前観た三宅唱監督の「旅と日々」はスタンダードサイズでした)
しかしIMAXカメラの画角はスタンダードサイズが基本なわけです。
そしてこのIMAXカメラ、実は使うフィルムの横幅が違うだけで
基本的な仕組みはビスタビジョンカメラとほぼ一緒なんですね
(ちなみにビスタビジョンは35mm、IMAXは70mmフィルム)。

また通常、映画撮影用のカメラというのはフィルムを縦に移動させて撮影する。
以前の「金曜ロードショー」のオープニングのアニメに出てきたあれですね。
一方、ビスタビジョンもIMAXもフィルムを横に移動させて撮影する仕組み。
それによってそれまでの一般的な撮影用カメラよりも高画質な映像の撮影が可能になり、
例えば広大な景色とか、群衆シーンなんかを効果的に撮影ができると。
だからIMAXカメラと似たような構造のカメラで撮影された
「ワン・バトル・アフター・アナザー」は、
IMAX用のバカでかいスクリーンをフルに活用できる。
だから監督はわざわざ「IMAXで観て!」と言っていたわけです。

ただこのIMAXカメラ、通常の撮影用カメラと違いレンタル料も高く、
また前述したようにIMAXカメラの画角はスタンダードサイズなので
一般的な映画館のスクリーンでの上映の際には画角を変更する必要がある。
そのため、IMAXカメラを劇映画の撮影で使用すること自体があまり普及していない。
使ったとしても作中のいくつかのシーンのみというのが現状。
だからいまIMAXのスクリーンで上映している作品のほとんどが、
通常の映画用カメラで撮影したものの画質を
撮影後に編集室でアップグレードしたものに過ぎない。
(ちなみにIMAXカメラ大好き監督の代表格クリストファー・ノーラン。
 「オッペンハイマー」でついにオスカーを獲りましたけど、
 次回作の「オデュッセイア」はIMAXカメラで全編撮影してるんだとか)
さらに前述したようなバカでかいサイズのスクリーンを用意してる施設も少ないため、
IMAX社が想定する上映環境で鑑賞できる場所自体が
世界でも数えるほどしかないわけです。
(ちなみに日本では東京・池袋と大阪・エキスポシティの二か所のみ)

つまり、身もふたもない話をさせてもらうと、
そもそもIMAX用のカメラで撮影された作品が少ない現状では、
絶対にIMAXスクリーンで観るべきといえる作品は年に数本しかない。
それでも数年前、映像用カメラ大手数社のいくつかのカメラに
IMAX社が「IMAX用と名乗っていい」とお墨付きを与えたことで、
多少はIMAXスクリーンで観る意味のある作品は増えているけれど、
その結果、ただでさえ少ないIMAXスクリーンの取り合いになっている。
ましてやIMAXスクリーンは本来IMAXカメラで撮影された映像、
つまり「実写作品」を観るための場所。
だからあのスクリーンでアニメ作品を上映する意味はほとんどない。
でも、より高い単価で集客をしたいという映画会社と映画館側の戦略により、
「IMAXという特別な上映方式で観る」というファン心理を喚起することで、
特に日本ではTVアニメの劇場版のIMAX版が乱発されてる。
その結果、今回の「ワン・バトル・アフター・アナザー」のような、
まさにIMAXスクリーン向きの映画が一日1回しか上映されない、
なんてことが常態化してしまってるわけです。



ここ20年ほど、いわゆるプレミアムラージフォーマットと呼ばれる
何らかの付加価値のついた上映方式が映画館で乱立するようになった。
主な上映方式について軽く説明すると


4DX、MX4D・・・スクリーンの映像に合わせて座席が動いたり、
           風や水などが観客に当たるアトラクション的側面の強い上映方式。
           乗り物酔いする人間には到底楽しめない代物。
           ちなみに4DXとMX4Dの違いは開発された国の違い。
           4DXは韓国、MX4Dはアメリカの企業。

スクリーンX・・・・・客席の全面だけでなく、左右両方の壁にも映像を投影する。
           視界全てがスクリーンで覆われるため没入感はあるが、
           後ろだけでなく左右からも映像が投影される為、
           単純に光源が3倍になって、上映中の館内が無駄に明るい。

ドルビーアトモス・・・米ドルビー社が開発した音響システム。
           音声トラックと位置情報をリンクさせて
           より的確なサラウンドを提供できるのが売り。
           
ドルビーシネマ・・・・前述したドルビーアトモスに加え、
           黒の発色が特徴的な映写システム「ドルビービジョン」の
           両方を兼ね備えている劇場システム。
           よって、夜のシーンが多い作品の鑑賞に向いている。
           本編よりも上映前のデモ映像で客席が一番沸く。


他にも各シネコンが独自に開発した上映システム、音響システムなどがあって
その都度追加料金が請求されているわけです。
(これも詳しいことは各自で調べてくださいね)


今回の「ワン・バトル・アフター・アナザー」の境遇に対し、
「映画製作者の思いを映画館が汲まないのってどうよ?」と思う反面、
「映画館にとっては『売れる映画』こそが正義だから」という理屈もわかる。
でもどんなに特殊な上映方式を導入したとしても、
肝心の作品の質が良くなければ意味がないわけですわ。
ま、私も映画ファンのはしくれなので、
どうせなら大きなスクリーンで観たいという気持ちはあるのですが、
「この上映方式じゃないとダメなんだ!」とこだわりすぎる製作者にも、
「この上映方式で観てこそです」と煽ってくる映画館側にも、
それはそれで「てやんでぃ、べらぼうめ!」って思ったりします。


さて、明日からジェームズ・キャメロン監督の最新作
「アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ」が公開されますね。
1作目の「アバター」はいわゆる3D映画という、

新しい上映システムを導入したものの結局あまり普及せず、

現在進行形で忘れ去られていってます。
(ま、テレビ業界が3Dの番組を製作・放送することに消極的だったのと、
 後発で発売されたVRゴーグルの方が人気が出ちゃったことなど、
 いろいろと普及に対するハードルが高かったですし)
これもまた、冒頭15分くらいはそれなりに驚くけれど、
中盤になったら目が慣れてきちゃうんですよね。
そもそも全編にわたって立体的になってるわけでもないし。
最終的には作品の面白さ次第だよなぁ、こういうのは・・・と感じます。



あ、結局「ワン・バトル・アフター・アナザー」は
IMAXスクリーンの上映時間と自分の予定が合わず、
通常のスクリーンで観ましたけどね。感想は言いませんけど。

どうも、はちごろうです。


最近、映画をいくつか観て考えたこと。


一本目は細田守監督の「果てしなきスカーレット」。
16世紀末のデンマーク。

謀殺された父の復讐に失敗し、死者の国に落とされた王女が、
現代から死者の国に迷い込んできた救命士の男と出会う話。
鳴り物入りで拡大公開されたものの、興行面・批評面ともに大惨敗だそうで。

二本目は三宅唱監督の「旅と日々」。
スランプに陥った韓国人の女性脚本家が、なりゆきで雪降る温泉街に旅に出る話。
ロカルノ映画祭で最高賞を獲得するなど、高い評価を得ている。

三本目はターセム・シン監督の「落下の王国 4Kリマスター」。
2008年に公開され、世界各国でのロケーションや石岡瑛子の衣装デザインなど、
監督の独特な美的センスが評判となり、カルト的な人気を誇る1本。
しかし劇場公開される機会がほぼなく、ソフトも中古市場では高騰状態。
そのため、今回のリマスター版上映はどこも連日大盛況だという。


この3本を実際に観て、そして各作品のネットでの評判を読んで改めて感じたのは、
「いい映画」の条件とは何なのか?ということ。


「果てしなき・・」は、公開当日からネット上で批判が噴出。

 「話の展開や、登場人物の行動が支離滅裂」
 「細田監督は自分で脚本を書かない方がいい」

などが主な批判意見。
しかし、私が一つ引っかかったのは、
この作品を批判している人がみな、異口同音のように脚本の不備を指摘してる、
というか脚本の不備“しか”指摘していない点である。
「おおかみこどもの雨と雪」以降、細田監督は監督だけでなく脚本も自分で執筆し、
その都度ネット上で「脚本が悪い」と言われ続けてきた。
そりゃそうだ。本来、細田さんは作画や演出で名を挙げてきた人。
だから言葉よりも画で説明するのが得意な人なわけです。
そしてそんなことは本人が一番わかってることだろうし。
ただ、その不得手な部分にチャレンジしてでも描きたいこと、
観客に訴えたいことがあるから頑張ってるんだろうけど。
つまり、細田作品に対して「脚本の出来が悪い」と指摘することは、
裸の人を見て「服を着ていない」と指摘するくらい簡単なことだし、
そこをいくら鬼の首を取ったように指摘してもあまり意味がないし、正直つまんない。
なんかこう、他に思ったことはないのかな?と。

そしたら今月1日に漫才コンビ「ナイツ」の塙さんが自身のラジオ番組で、
娘と『果てしなきスカーレット』観てきたことを報告。
塙さんは主に死者の国の描写について絶賛した後、

 「めっちゃ面白かったけどね、俺。2時間くらいあっという間で。
  ずっと前のめりで。子供もめちゃくちゃ見てた」

とコメントしてたのが印象的だった。

実は私もこの作品に関してはどちらかというと塙さん寄りの意見で。
確かに作中の各エピソードがうまいこと繋がっていなくて、
一つの大きな話としてまとまりに欠けている印象は強かった。
いきなりミュージカルシーンが始まったりなんかしてね。
ただ、個人的にはあのシーンは「あ、ヘンなもんが始まったぞ!」って感じで、
いろんな意味でワクワクしましたけども。
でも塙さんが指摘しているように、映像はいい出来なんですよ。
死者の国の混とんとした世界観は筆舌に尽くしがたいし、
地平線を見つめる主人公の姿とか、思わず「いよっ!」って掛け声かけたくなるくらい。
アクションシーンも「いい動きしてんなぁ!」って思ってたら、
「ベイビーわるきゅーれ」の伊澤沙織さんが
スタントパフォーマーとして参加していたって後で知って驚いたり。
また、登場人物が生きてる時のシーンは手描き、
死者の国でのシーンはフルデジタルと、
作画手法を区別することで視覚的な違いを演出してたりしてね。
「いろいろやってんなぁ・・・」と思ったし。


なんか、今回の「果てしなき・・」に対するネット民の反応を見てたら、
17年前かな?ずいぶん前に公開されたある作品を思い出しちゃってね。
あの作品も公開当時はネット上で派手に批判されて。
しかも批判のされ方も今回とほぼ一緒。
「脚本が悪い」「登場人物の言動が支離滅裂で、非常識」などなど。
でもその作品も本作と同様に、個々のシーンはホントに魅力的で。
ヒロインが好きになった男の子のもとに荒波に乗ってやってくるシーンとか、
男の子の母親が作ったハムの乗ったラーメンを二人で食べるシーンとか、
何度観ても「いいなぁ・・・」と思えるシーンがたくさんあって。
どっちの作品も、脚本に目くじら立てて怒ってるのはエエ年した大人たちで、
子供たちはむしろその圧倒的な映像に満足してる点もあまり変わらない印象。

ま、あの作品みたいに、ぬいぐるみになるような可愛いキャラクターとか、
「♪~ぽーにょ、ぽーにょ、ぽにょ」みたいなキャッチーな主題歌があったら、
「果てしなき・・」も多少はヒットしてたかもしれないのかなと。



次に2本目の「旅と日々」。

話の前半は、主人公がつげ義春原作の漫画を脚色した脚本を元にした映画が
劇中劇のように展開されるんだけど、刺激的な展開はほぼ皆無。
海辺のある街で若い男女が出会い、会話をしながら街を散策し、
翌日、台風で大雨が降る中で二人が泳ぐ。たったそれだけ。
そして後半は主人公が思い付きで旅立った温泉街でやっと見つけた、
ほぼ民家のような宿屋での一夜の出来事が展開されるんだけど、
宿屋や、宿屋の主人の過去についてのはっきりとした説明は皆無。

 「前半は面白いことが何も起こらない」
 「説明不足」
 「結局何が言いたいの?」

こんな感じの批判が出てきそうな脚本になってるんだけど、
個人的には前半の何も起きない感じがいい感じにデトックスになって、
後半の宿屋での出来事が、薄味なんだけどしっかり面白く感じてね。
また雪の夜に主人公と宿屋の主人が足跡一つ付いていない雪原を歩く姿を
遠い丘の上から見下ろすように撮ってるシーンが、すごい贅沢に思ったんですよ。



さて、3本目の「落下の王国」。

この作品の売りはその圧倒的な映像美。
世界20か国近くの国々でロケーションを敢行し、
登場人物たちが奇抜な衣装で、これまた復讐の旅を繰り広げる。
ホントにね、「よくこんな場所見つけてきたなぁ!」って言いたくなるくらいの、
思わず「うわぁ・・・」って声が漏れるくらいの良いシーンがてんこ盛りで。
ただその一方、話に関してはちょっとアレな印象で。
物語はだいたい100年近く前のロサンゼルス。
撮影中の事故で歩けなくなったスタントマンが、
腕を骨折して入院中の少女に壮大な物語を聞かせる代わりに
薬品棚からモルヒネを盗むようそそのかす話で。
しかも作中でスタントマンが話す物語ってのが、
思い付きで語り散らかしてるだけあって少々無理があって。
さらに後半になると物語の展開について少女がダメ出しをし始め、
話の内容に介入するなど、最後の方はなんだかよくわかんない感じになってる。
それこそ
 

  「スタントマンが話す物語が支離滅裂」
  「ご都合主義が過ぎる」
  「あの建造物には何の意味が?」

と、批判されそうな感じというか。



まぁ、ここまでつらつらと書いてきましたが、
つまり今回言いたいことは

 「脚本の出来が悪い映画」=「駄作」なのか?

ということ。
そもそも観客が映画に求めるものは脚本の出来ばかりではありません。
確かに構成の素晴らしい脚本や、強烈なメッセージ性を求める人もいるでしょう。
でも目を見張る印象的なシーンだったり、魅力的なスターの姿だったり、
美術や衣装の斬新さや、思わず口ずさみたくなるメロディがあれば、
後世に語り継がれる傑作になることも多分にあるわけです。
「脚本の良さ」というのは観客から「いい映画」と認定される要素の一つにすぎず、
それ以外の要素で十分観客を楽しませられたら、それもまた「いい映画」なわけですよ。
結局は「いい映画」の条件というのは個人によって異なるわけだから、
良いも悪いも含めて多様な感想が出るのが自然。
今回の「果てしなき・・」のように脚本のまずさだけが批判される、
その感想が偏りすぎな状態はむしろ不自然に感じるわけです。
下手したらネット上の他人の感想をちゃっかり拝借して、
さも自分の感想のように言ってる連中が一定数いそうだなぁと。


ま、作品の良し悪しは、横着しないで自分で確認しなさいよってことで。
もしかしたらあなたにとっては傑作かもしれないし。
 

どうも、はちごろうです。


昨日、毎年恒例の新語・流行語大賞が発表され
年間大賞は「働いて働いて・・・」というやつが受賞したそうな。
そんな、新語・流行語大賞の結果に対しては、
「こんなの流行ってねぇ!」という意見がネット上を中心に多数上がるのも含め、
その反応とセットで年末の風物詩となってる感がありますけれども。
この流行語大賞の結果と、それを知った人々の実感の乖離。
個人的な肌感覚としては2000年代に入ってから一気に加速した気がしてるのだが、
そのきっかけとなったのも、この流行語大賞だったと私は思っている。


1997年の新語・流行語大賞。
この年、イラストレーターのみうらじゅんさんの

 「マイブーム」

という言葉が年間大賞のベストテンの一つに選ばれた。
世間一般で流行しているものとは別に、
各個人の中で注目しているものという意味のこの言葉。
いまだに新語・流行語大賞の話題になると、
「あなたの今年の流行語は?」なんて質問を
夕方のニュース番組で街頭インタビューしたりしてますね。


私はこの言葉が世間的に広まったことによって、
例えどんなに世間で流行っているものがあろうとも
それとは別の何かに注目し続けてもいいんだ、
無理して世間の流行を追わなくてもいいんだという
ある種の免罪符が誕生したんだと思っている。
ま、これで人々の嗜好が尊重されるきっかけになったんだから、
そんなに悪いことではないと思うし、

「マイブーム」という言葉自体が定着したいま、

全世代が一つの流行語で盛り上がる時代にはもう戻らないだろう。


さて、今年の年間大賞に選ばれた「働いて働いて・・・」って言葉。
この言葉を発した現総理の支持者たちは
「総理に就任した責任と、執務への気合いの現れ」と評価する一方、
これまで働き方改革を推進してきた層には
「時代に逆行する」として批判の声が上がっている。


そういえば、大昔に似たような流行語がありましたね。

 「月月火水木金金」

っての。

確かに時代に逆行してるのかもしれないですね。



 

どうも、はちごろうです。


1995年の今日。ある商品の登場が世界を一変させる。
米マイクロソフト社のパソコン用基本ソフト「Windows 95」。
この商品の登場をきっかけに、
「家庭用パソコン」という概念が世界中で浸透した。

全世界の人々が家庭用パソコンを購入した最大の理由。
それは「インターネット」である。
電話回線を使って文字や画像をやりとりする。
これによって「ネット空間」というもう一つの社会が生まれ、
人々は好むと好まざるとに関わらずこれに関わるようになった。

そして時を同じくして個人向け携帯電話が登場。
電話が一家に一台から一人一台持つ時代が到来した。
2000年代に入ると携帯電話はスマートフォンに進化し、
もはやスマホがなければ生活が成り立たない状況になりつつある。

さらに90年代にはゲームボーイやPSPに代表される携帯ゲーム機が登場。
最初は有線のケーブルでゲーム機本体を繋いで遊んでいたものが、
次第にネット回線を使用して遠方の人々と遊べるようになり、
それとともにゲーム自体もオンラインでの利用を前提としたものが増えた。
スマートフォンの普及により携帯ゲーム機自体の売り上げは衰退するも、
オンラインゲームはさらに一般的になっていった。
また同時期、各自治体で起きた公園をめぐる騒動、
例えば大型の遊具で遊んでいた子供がけがをしたとか、
地域住民からの苦情により公園内で様々な行為が禁止になったなどにより、
公園が子供たちの遊び場として使い勝手が悪くなったこともまた、
子供たちにとって携帯ゲーム機の必要性が高まった一因との可能性もある。



パソコン、ゲーム機、スマートフォン、
そしてそれらを使って利用しているインターネット。
平成の30年間でこれらのデジタル機器やサービスは、
我々にとって「生活必需品」となった。特に若い世代ほどその傾向が強い。

これらのデジタルデバイスは、かつて「三種の神器」とまで言われた
冷蔵庫・洗濯機・掃除機などの家電製品と違い、耐用年数が短く、
またセキュリティの観点からも定期的な買い替えを必要とする。
しかも一人一台の所有・利用が基本となっているにもかかわらず、
機械そのものの進歩とともに購入価格も上昇している。
そしてこれらの機器はどれもコミュニケーションツールの側面も強く、
もはや社会生活の継続にも支障が出る代物といっても過言ではない。



私は以前から考えていたのだが、
これらのデジタルデバイスや、それで利用するネット環境というものが
「生活必需品」になっていることを多くの人がきちんと認識をしていない、
特に政治の現場でその認識が希薄なのではないかと。

数年来の物価高に加え、今年は米の価格やガソリン価格など、
より生活に密着した物品の価格上昇がさらに閉塞感を生んでいるわけですが、
この30年の間にデジタルデバイスという新しい「生活必需品」が登場したこと、
そしてその購入・維持費が、特に若い世帯の家計に与える影響については、
いくら携帯各社が割引サービスを充実させているとしても無視できないと思うのだが。



ま、国会の審議中にスマホが利用できない、
委員会の審議中にYouTube観てて批判された議員が
逆にデジタル大臣になれるような国だから、
いまの政治家のネット環境に対する理解度は推して知るべしって感じだけれど。