「鑑真和上と下野薬師寺」その2 | 死ぬまでにすべての国宝を肉眼で見る

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2023年12月現在の国宝の総数1,137件。そのうち、美術工芸品906件。これをすべて肉眼で見ようという計画です。関西中心の情報をお届けします。

栃木県立博物館 


で開催中の特別展「鑑真和上と下野薬師寺 」のレポート 


の続きです。

今回は、文書系のレポートなので、見た目にツマラナイです(^_^;)

覚悟してください(゚∀゚)



・国宝 延喜式(九條家本)より
巻二十一

東京国立博物館所有の国宝。平安時代(11世紀)の作。 

"延喜式"の"延喜"は元号"延喜"のこと、"式"は「律令」の施行細則のようなものだそうです。
いわば、宮中の行事や儀式の詳細を記したルールブック・マニュアルです。
醍醐天皇の命により、延喜5年(905年)に藤原時平が編纂を始めたました。(菅原道真の呪いで耳からヘビを出して死んだので、忠平が引き継いだ)カワイソ
延喜式はもともと全50巻存在しますが、全巻完全に残っているのは、すべて江戸時代以降のものだそうです。
それ以前の時代のものは、僅かにしか残っていないんですね。
東京国立博物館所有の、この国宝 延喜式(九條家本)は、平安時代に書写された古写本で全27巻あります。
今回はその中の、巻第二十一を展示しています。

「天下三戒壇」の一つである下野薬師寺の、"授戒担当エリア"が書かれた部分を展示しています。
そのエリアは、現在の東北・関東地域の、東国10ヵ国だったようです。

字が……読みづらいです(^_^;)




・国宝 東寺百合文書より
東大寺戒壇院差図(展示期間変更)
・権法務相続次第(諸僧事宣下先例)
京都学・歴彩館所有の国宝。

"東寺百合文書"は、東寺に伝え残されてきた古文書群で、その数はおよそ2万5千通もあります。その中からの展示です。

"東大寺戒壇院差図"については、展示期間変更になっていて、すでに展示を終えていました。

・権法務相続次第(諸僧事宣下先例)
南北朝時代(14世紀)の作。
巻子本ですが、紙背(紙の裏)を展示していました。
こちらも、下野薬師寺の"授戒担当エリア"が書かれた部分を展示しています。
「諸国戒壇事 東山道国以 下野薬師寺為戒壇院」
とあるので、東国の"授戒"は下野薬師寺が担っていたことが、わかります。
また、
「西海道諸国以 筑紫観世音寺為戒壇院」
から、西国は観世音寺が担当。
「東大寺戒壇」「延暦寺戒壇」と続き、"天下三戒壇"の三寺に続き延暦寺でも戒壇が行われていたようです。


・国宝 東大寺文書より
・東大寺領荘園文書並絵図等目録

東大寺所有の国宝。東大寺に伝わる文書類で、100巻(979通)、8,516通もあります。

東大寺、下野薬師寺ともに"天下三戒壇"ではありますが、下野薬師寺は東大寺の末寺という位置付けだったようです。それを示す文書として、2点が展示されていました。


寛治5年(1091年)の作。
細い巻子本で、巻頭から30cmほどを展示していました。
下野薬師寺が東大寺に提出した、寺の縁起や寺領の範囲などの報告書です。
「下野薬師寺は、東大寺の末寺で聖武天皇の御願で建てられた」とあります。


・東大寺領荘園文書並絵図等目録
対治5年(1130年)の作。
巻子装で、巻中1.5mほどを展示。
東大寺の荘園とその絵図を、国ごとにまとめた目録です。
「下野国薬師僧 慶順申文 一通」とあり、ここでも下野薬師寺は東大寺の末寺扱いになっていたようです。

かつては"天下三戒壇"として、東大寺と並ぶ寺格でしたが、段々と力が弱まり、東大寺の末寺へと落ちて行き、現代ではお寺自体が無くなってしまいました……


・国宝 称名寺聖教、金沢文庫文書より
金沢文庫文書より
称名寺聖教より
忍性書状
金剛界私見聞
金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経

称名寺所有の国宝。称名寺と金沢文庫に伝来した史料群で、聖教及び文書が16692点4149通もあります。
金沢文庫文書と称名寺聖教に分類されているので、まずは金沢文庫文書より、

建長6年(1254年)の作。
下野薬師寺の僧"慈猛(じみょう)"が、"審海(しんかい)"に対して弟子として認める「許可灌頂(こかかんじょう)」を伝授した際の「印信(いんじん)」。"印信"は師が弟子に教えを伝授したことを証明する文書。
それに付属する"血脈"つまり"系統図(ルーツ)"です。ヤヤコシイ(^_^;)
えっと……
「慈猛さんが、審海くんを弟子として認めましたよ。
この法脈は、大日如来から脈々と続くものですから、あなたもしっかりと、その教えを受け継ぎ、伝えて行きなさいね」
「ほら、これが系図だよ」
と、渡されたものです。
と、大日如来を祖として、真言八祖の龍猛、龍智、空海の師である恵果、空海、と名だたる僧侶の名が並び、その末端に審海くんの名が連なる訳です。
これ貰ったら、襟を正したくもなりますよ(^_^;)


鎌倉時代(13世紀)の作。
審海くんは、立派に称名寺の長者を務めるまでになっていました。
Wikipedia より(この人が北条顕時)
北条顕時が菩提寺である称名寺の審海くんに、扇を3本贈ったときの添え状です。
紙背文書で、軸装されています。
「ゆめかましく候へとも、あふき三本進候、又々恐候ほと□は候はんとまいらせ候、尚ゆめゝゝしく候事、恐入候、恐々謹言、五月十五日 花押(顕時) ちやうらうの御方」
画像 を見ると、左上に寄せて書いていますね。これは、手紙なので中が見えないようコンパクトに折りたたむためです。
"ちゃうらう(長老)"が、審海くんのことです。


次は、称名寺聖教より

・忍性書状
文永4年(1267年)の作。
鎌倉極楽寺の"忍性(にんしょう)"が、称名寺の審海くんに宛てた手紙。
縦25✕横40cmほどの1枚紙2枚に、草書で書かれています。
「さて十四日……」から始まるのですが、読めるのはそこだけ……
なんでも、極楽寺で何かの儀式をやるそうで「儀式のために、早めに身を清めて、極楽寺に来てね。儀式では君に声明役をやってもらうつもりだ。」
などと、書かれているそうな。
審海くん、頑張ってますね(^_^)


・金剛界私見聞
文永10年(1273年)の作。
縦12✕横20cmほどの、ペラッペラの冊子本。
審海くんの師 慈猛さんが、下野薬師寺にいた頃書写されたことが、奥書からわかります。(ただ、それだけ……)


・金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経
文永10年(1273年)の作。
縦20✕横15cmほどの、ペラッペラの冊子本。
同じく、審海くんの師 慈猛さんが、下野薬師寺にいた頃書写されたことが、奥書からわかります。(ただ、それだけ……)

この2点は、いろんな地方からお坊さんが下野薬師寺にやってきて、寺に伝わる様々な文書を書写していったことの証明として展示されています。
つまり、下野薬師寺が東国で、仏教文化の重要な位置付けにあった…と、言いたい訳です。


以上です。

後半は文書ばっかりの展示だったので、チョットつまらなかったですかねぇ〜(^_^;)
↑ハロウィンの仮装をした、栃木のみーたん で、なごんでください(^_^)/~~