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お京塚で休憩させて頂けるなんて

 
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『お遍路さん、ちょっと寄って行き』との看板に吸い寄せられて…

 

残念!まだ営業時間前で、閉まっていました。

 

 

何と読むのか?読み方が分かりません。

 

日本吹き矢連盟徳島支部。

 

花火の産地です。

 
看板の横に立っている鉄の筒が、花火を打ち上げる筒でしょうか?

 

 

暫く歩くと、遍路小屋が…

 

お京塚と書かれています。

 

お京さんの説明。

 
その昔、石州浜田(現在の島根県浜田市)城下通り町三丁目桜井屋銀兵衛にお京という娘がおりました。

お京は、16歳の時、大阪新町へ芸者に売られ、そこで芸妓として務めるうち、要助という者と契りそめ、22歳の時、大阪を脱走し生国浜田へ立ち帰り、親に頼みて要助と夫婦になりましたが、お京の心様が最も悪しく慣れるにつれ、我儘増長し、鍛冶屋長蔵という密夫をつくってしまいました。
これを夫要助に嗅ぎつけられ、二人とも散々に打ち叩かれ、邪見のお京は長蔵を手引きして、夫要助を打ち殺してしまいます。

お京と長蔵の二人は、故郷を逃げ出し、讃岐丸亀(現在の香川県丸亀市)へ渡り心中しようとしましたが気後れして心中することができず、後生のため四国巡礼の遍路に出ました。

享保3年(1718)、阿波の国(現在の徳島県)にある
19番札所立江寺にお参りし、本尊の地蔵尊を伏し拝まんとするや、忽ち、お京の黒髪が逆立ち鐘の緒に巻きついてしまいました。
苦痛のお京を見て、長蔵は狼狽し、住職に救いを求めました。

住職は罪障の報いであろうと思い、二人に今までの行いを問いただしました。
お京は仏罰の恐ろしさに、全てを懺悔しました。
すると、不思議にも、お京の黒髪は肉とともにはがれ、辛うじて命は助かりました。

その後、二人は改心し出家して、田中山(立江寺より北へ500メートル現在のお京塚)というところに庵をむすび、一心に地蔵尊を念じ生涯を終えました。

お京の黒髪付の鐘の緒を立江寺の堂(黒髪堂)に納め置いたのは、亨和3年(1803)の春だという。

 

遍路小屋の屋根が合掌の形をしています。

 

※2枚並んでいる画像は肉眼で観れる3D画像です。

パソコンは画面と目の間を40~50cm、スマホなら25cm位で頭を傾けずに水平にした状態で写真と目の中間位の位置に人差し指を立てて指先をじっと見つめて下さい。

視線が寄り眼の状態になって右目で左の写真を左目で右の写真を向見ている状態です。

 

図3

人差し指の向こう側にぼんやりと3枚の写真が見えて来るので、寄り眼の視線を保ちながら、真ん中の写真に焦点を合わせると真ん中の写真が立体に見えて来ると思います。

 

独特の形の屋根ですね。
 
入口付近にある自販機ですが…
 
売り上げの一部という事ですが、どの位なんでしょうね?
 
腰を下ろして休憩出来ます。
 
扉を開けてお参りさせて頂きます。
 

お京さんのお位牌が祭られてあります。

 
※それでは動画で歩いて来た様子を観てみよう!
(動画は二巡目遍路時になりますので、写真とはは異なります)

 

 

小屋の中にはお遍路ノートが置かれてあり、立ち寄ったお遍路さんの思いが書かれてありました。
確かに徳島県をお遍路中にお接待を受ける事は他の三県よりも遥かに多いですね。
 
スペインや台湾から来られたお遍路さん達も頑張られて下さい。
愛、平和、感謝!的遍路之道…この部分だけ良く分かります。
 
カナダからのお遍路さんもお元気で…
 
妹尾さんは逆打ち遍路で残り少しみたい、最後まで頑張り通して下さいね。
 
山の中で迷った東京の中林さんは大変でしたね。
でも、本道へ出られて良かったです。
 
確かに足を高く上げて暫く寝転ぶと足が軽くなりますね。
茨城の竹内さんは238ヶ所の寺社巡りですか、凄過ぎます。
 
『あと30分で今年も終わります』って真夜中に歩いているのでしょうか?
何処で泊まるのでしょう?
 
 

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