日は地域活性化におけるよそ者の重要性を指摘した。

が、しかし、そのよそ者についても限界があるような気がする。

その限界とは、「よそ者とはしょせんよそ者でしかない」ということ。ちょっとわかりにくいかもしれない。よそからきた人には地元人ほどの土地に対する愛着がない、といえばいいだろうか。

要するにコミットメント(取り組む姿勢あるいは心構え)が地元人ほど深くはないということだ。もちろん、例外はあるだろう。よそ者であっても地元人以上に新しい土地を愛し、それを活性化しようと努力を惜しまない人はいるに違いない。

が、果たして、そこに無償の愛が要求されるとしたら、どうだろう……

以前によそから移住してきた人にあることでお願いをしにいったときのことだ。はっきりとはいわなかったが、その人のいわんとするところは「またボランティアですか。もうボランティアはやめたい。手伝うのであれば、ちゃんと金をくれ」ということだったと理解している。

結局、完全なボランティアであっても地元のためにおれは、私は無償の愛の精神でできるだけのことをする、という姿勢がないということなのだ。

一つには、「別にこの土地にこだわらなくてもいいじゃないか。ここでダメなら、ここが自分をちゃんと活かしてくれなければ、別の土地に移ればいい」ということもあるのかもしれない。

ところが、ぼくの場合もそうだが、地元人にとってはそう簡単にはいかない気がする。

いくら嫌なことがあっても、いくらアイデアが活かされなくても、ここは自分が生まれた土地であり、そこを去るわけにはいかないのだ。いや、こんな具合ならもう離れたいという気持ちがなかったわけではない。でも、最後にはやはり「ここが自分の故郷なのだ。何としても踏ん張らねば」という気持ちが逃げ出したい気持ちに打ち勝つというか、それを抑えてくれるのだ。

だから、いくらボランティアだろうが、タダ働きだろうが、ここが生まれ育った故郷である以上、辛抱して成果を出していくしかないのだ。

だから、よそ者を活用するといっても、そこまで(タダ働き)を期待してはいけないと思う。彼らを使う場合には、ちゃんとした経済的な裏付けがまずは必要になるのだろうという気がする(ただし、これはお金に不自由しない境遇にあるよそ者には当てはまらない。そういう人なら、ボランティア精神でもって地域の活性化のために働いてくれるのかもしれない。でも、まぁ、そういう人は少ないだろうなぁ……)。

追記:と書きながら、そういう見方が間違っていてほしい、という希望もあるのだが……