ょうは、10月30日付の地元紙の記事で指摘された「地方の限界」について触れてみたい。

その記事の内容を簡単に説明すると、次のようになる。

阿久根市(以前に独裁的な手法で話題となった市長がいたところ)に一般市民100名からなる委員会が発足し、何度か会合を重ねて地域の活性化についてさまざまな提言を行ったところ、まとまりや具体性に欠けるものが多く、結局、「素人らしい斬新な発想の提言は乏しかった」のだという。

最初この記事を読んだときには驚いた。この種の地域ネタを地元紙が掲載する場合、どちらかというと応援型のものが多く、この記事のように明らかに批判的なものはほとんどないからだ。というか、初めてといっていいくらいだ。

それほど珍しい記事なのだ。

でも、中身を見ると、記者が批判したくなるのも当たり前と思えてくる。美辞麗句が並び、具体性のあるものが乏しく、「現状分析や課題の指摘、先進事例の紹介にどどまるものが目立」つからだ。

提言のうちのいくつかをあげてみよう。

〇高齢者が元気で笑って暮らせる街に
〇基盤整理で生産性の高い農業に
〇各団体が連携して事業・イベントに取り組める事務局を
〇教育は学校・家庭・地域が一体となって取り組むことが大切

おいおい、これじゃぁ、選挙で市長(町長)候補が掲げる抽象的なマニフェストと何ら変わりがないじゃないか!

そう思わざるをえない。

いや、中には具体的なものもある。

〇観光パンフレットの充実を
〇クリーン作戦や草刈りの充実を
〇市内を花いっぱいに
〇タケノコのブランド化を
〇文化会館や図書館の早期建設を

正直、「この程度か」と思わせるものばかりだ。


結局、地方の発想とはしょせん、この程度なのだ。ぼくもこの4年あまりさまざまな会議に出席していろいろな意見や提言を耳にしてきているわけだが、斬新なものがでてきたためしがない。記者が指摘しているとおり、あっても「先進事例」のモノマネや追従型の提言が多い。新しい発想に基づいた斬新なプランはほとんどない。

なぜか?

これは、昨夜開かれた隣町の町おこしグループの会合でも指摘したことなのだが、その答えは実にはっきりしている。

要するに、地元の人には地元がよく見えない、理解できないということなのだ。地元の本当のよさや問題点が見えない以上、また地元以外の尺度を持たない以上、現状を打開する新しい発想など生まれる余地がないのだ。

だから、はっきりいって、市民からの提言を求めたところでろくなアイデアは出てこないと思う。もちろん、例外はあるかもしれないが、非常に難しいだろうと思う。

では、どうすればいいのか?

新しい発想で地域を再生するには、やはりよそ者の視点が必要不可欠なのだ。よそ者の新しい視点で地域の資源を見直すことでしか、地域の本当の可能性や問題点は見えてこないのだと思う。だから、こういう委員会を設立するうえでは、少なくとも地元の人に交じってよそ者を加えるべきだ。そうしないことには、行政が求める新しい発想は土台無理な相談なのだと思う。

ただし、それだけでいいというわけではない。

その先には別の問題がある。

それは、たとえ斬新なアイデアが出たとしても、それをとり入れるだけのシステムが行政にはないということだ。絶対不可能というわけではないだろうが、それでも難しい。実に難しい。

なぜかというと、基本的に行政は前例主義であり、新しいことをする=リスクととることに対して極端なまでに躊躇する。だから、いつまでたっても、せっかく出された新しい発想が活かされないし、新しいプロジェクトが始まらない。

要するに、どん詰まりの状態にあるというのが多くの地方の現状だということだ。

では、それが変わる可能性はあるのか?

うーむ、難しいだろうな……そういうほどぼくはペシミストではない。そこまで悲観はしていない。実際、この4年あまり、さまざまな場所で毎回同じようなことを飽きもせず話してきた結果、少しずつ理解してくれる人の輪が広がり、来年にはNPOが立ち上がるところまできた。

やっぱり最後は忍耐という気がする。

新しい発想やアイデアを人に理解してもらうには、それはそれは時間がかかる。でも、時間がかかるからといって途中で「アホらしい。もうやめた」といって諦めてしまっては、実現するものも実現しない。歩みののろいカメのように、あるいは鈍牛のように、蹴られても蹴られてもまた戻り、同じ話をする――そういう辛抱強い努力だけが現状を打開し、新しい地平線を切り開いていくのだろうと思う。

さぁ、明日もまた、心を込めて地域再生に向けた話をしていこうではないか!