崇禅寺 戦災犠牲者慰霊祭(第79回・八十回忌)に参列させていただき、追悼集会(語る会)では 来賓として挨拶させていただき、「戦争を体験された方々の生の声を若い世代や児童生徒が聞ける機会を引き継いでいくことに皆様と一緒に尽力していき、平和な日本社会を守る続けるための努力をしていきたい」旨を語らせていただきました。



昭和20年6月7日、東淀川区 を含む大阪市北東部では、午前11時頃から1時間超にわたって、B29爆撃機409機による1t爆弾と焼夷弾などの投下 と P51ムスタング機138機による機銃掃射で、淀川沿いの地域は大きな被害を受け、死者は2759名、負傷者は6682名、焼失倒壊家屋は5万8165戸にのぼったと記録されています(第3次 大阪大空襲 )。

この空襲により、崇禅寺 周辺の地域は灰塵と化し、多くの子どもを含む 住民500名以上が犠牲となり、その亡骸は崇禅寺に運び込まれ、埋葬されました。



昭和28年、その地に戦災犠牲者慰霊塔が建立され、地域住民の有志の切望により、改葬されることとなり、墓碑が建立されました。

この慰霊塔には、正面に「大阪市長 中井光次」の名が刻まれており、側面に「大阪市会議員 中川富三郎 中田亀藏 床田仁三郎」と刻まれています。

また、墓碑(霊記)には、お名前が判明している474名の姓名と不明44名が刻まれており、この中には、約80名の被差別部落の方々のお名前と70名超の朝鮮半島出身の方々のお名前も刻まれています。




このように、朝鮮半島にルーツのある人々や被差別部落の人々がその他の人々とともに埋葬され、同じ墓碑で同列に刻名されていることは珍しいと、慰霊祭の実行委員である 大賀喜子 さんから教えていただきました。



また、追悼集会(語る会)では、大賀喜子 さんが、当時の崇禅寺の住職さんが書かれた空襲当日の体験記を素話され、山中多美男 さんが、当時4歳半だった当日に空襲から走って逃げた体験や、目の前で血を流して人が亡くなる光景、大きな建物が燃え落ちる光景を語られました。



ご両名の話は、胸が詰まりそうになるほど、心に刺さり、生死を分けた臨場感や生き延びた場面が、脳裏に映像が浮かぶほど、インパクトのあるものでした。そして、なんの罪もない子どもが、機銃掃射で追いかけられ、殺されたことに、大きなショックを受けました。

このように、体験談を語り聞くことは、平和の尊さ、戦争の恐ろしさ、命の大切さ を心で感じることができるということを、あらためて強く認識しました。



このような集いに一人でも多くの若者や児童生徒が参加してもらえるよう、そして、住んでいるこの東淀川区の地域にも戦争の犠牲があったという歴史を知ってもらうことで平和の尊さを感じてもらえるよう、終戦から80年目を迎える来夏に向け、地域の皆様と一緒に知恵を絞って、取り組んでいきたいと思います。

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この日の慰霊祭のことがニュースで報じられましたので紹介 🆕



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