【コラム】写真とカメラの話 | Photo Life in Toyama

Photo Life in Toyama

富山の写真家 林治のブログです

いつも Photo Life in Toyama へご訪問いただき、ありがとうございます。

さて、今日は振替休日ということもあって、少し毛色の違った記事を書かせていただきます。

 

今回は【コラム】として「写真とカメラ」の話題です。

 

※不定期のコラムです。筆者が写真に関連する話題をフォトグラファーの常識と偏見を交えて書くものです。

もちろんご意見も大歓迎です。お気づきの点等コメントいただければと思います。

 

 

  1.写真部時代に学んだこと

 

私自身のことで恐縮ですが、私は中学・高校で写真部に在籍し、当時の部員は全員雑誌のコンテストに入賞することを狙って撮影し、フィルム現像を行ない、そのネガをルーペで見て写真を選び、引き伸ばし〜印画紙の現像・定着を行ない、フェロ乾燥をして、封筒にプリントした写真を入れて応募する、といった日々でした。

 

 

写真部は暗室を持っていたので、日々そこでこうした引き伸ばし作業を行なっていましたし、土曜日などは暗室に篭って徹夜し日曜日の朝帰宅することもありました。

また、土曜日の夜の暗室は人気があり取り合いのようになったので、自宅の自室にダークカーテンを取り付け、引き伸ばし機やバットを設置し、途中からは自室を暗室にして作業していました。
その頃写真の指導も受けていたので、徹底的に「写真は撮影するだけでなく、その後工程がとても重要だ。」とか「世界の有名な写真家たちは暗室作業をとても重視し丁寧に行なっている。」といったことを学びました。例えば、アンセル・アダムスが美しいプリント作品を作るためにゾーン・システムを体系化したり、ユージン・スミスが徹底的に暗室作業に拘った話は有名ですね。
我々の仲間もそんな先人たちを参考に勉強をし、様々な議論をしながら実際に作業をしていました。

そして、来る日も来る日もそんなことをやり、また写真の指導も受け、写真部の仲間たちも同じようにしていた結果、高校の同級生たちはほぼ全員写真コンテストで入賞しましたし、同級生のうち2人はプロカメラマンになり、1人は映画制作販売会社を立ち上げ、私は今写真家、写真団体代表を行なっている訳です。

 

 

  2.写真はカメラ?

 

  

 

色々な変遷ののち、一般企業に入り社会人となって、結局企業内カメラマンもやることになりましたが、一般の人・・例えば会社の同僚などに「僕は中学・高校時代、写真部だったんです。」と言うと・・

 

10人中、まず8人以上の人は「彼は中学・高校時代、カメラ部だったらしいよ。」と言うのです。

そして何度言い直しても、それは変わりません。

また「僕の趣味・特技は写真です。」と言ったとしても「あなたはカメラやってましたよね。趣味はカメラでしたね。」と言われます。

 

あれ?と思いました。

 

私の中では、カメラを使って作業する部分は写真全体の工程のほんの一部でしかありませんし、そもそもカメラは写真で何かを表現するために思考し作品を制作する時に使う道具の一つでしかありません。

例えば寒冷地へ行く場合、レンズの曇りを取るのにカイロを使うことがありますが、私にとってレンズもカイロも同じ作品制作のための道具であって、GPSやモバイルバッテリーも同じ。

 

もし仮にカメラが写真の道具の中で大きな位置を占めるとしても、絵画の絵筆、書道の墨、料理の鍋、ボウリングのボール、水泳の水着、卓球のラケット・・といった他の分野の道具も同じ重要さと思えますよね。

 

なので、以前カメラ部と言われて違和感を感じたことを思い出すと、そのとき「絵筆部」「ボウリングのボール部」「卓球のラケット部」と言われたように感じたからか‥と納得してしまいました。

 

また、「あなたの趣味はカメラですよね。」と言われて違和感を感じた理由は「あなたの趣味は(水泳の)水着ですよね。」「あなたの趣味は鍋ですよね。」と言われているように感じたからでしょう。

や、趣味が水着・・これ、今の時代だとちょっと危ない感じがしますね。

 

やはり、今でも生きていると感じる、この「写真とカメラが混同されている文化」はかなり違和感があります。

海外ではそんなことはないので、カメラメーカーが日本にだけ集中していてカメラ・カメラと言い続けた名残なのかもしれませんが、日本で根強いこの文化が様々な現象を生み出したのではないかと思います。

 

 

  3.カメラ雑誌

 

以前、アサヒカメラ、カメラ毎日、日本カメラを称して3大カメラ雑誌と言ったことがありました。

どれも1950年代前半あたりに発刊され、カメラ毎日は1985年、アサヒカメラは2020年、日本カメラは2021年にその役割を終えました。

 

でも、考えてみるとこれもちょっと違和感がありませんか?

写真好きな人、フォトアーティストを目指す人が、なぜかカメラ雑誌を買っていた。

 

※実際には、私が高校時代には純粋に写真を目指す人は既にカメラ雑誌は買っていなくて、コマーシャルフォトなどの写真雑誌を買っていたので話は違っているかもしれませんが、世の中でカメラ雑誌はかなり売れていたと思います。

 

また、当時は私も違和感なくカメラ雑誌を手にとっていたので、自分自身、写真とカメラが混同する文化の中にいたのは間違いなさそうです。

 

そして、当然ですがカメラ雑誌はやっぱりカメラ雑誌。

中身は少しだけ「画一的な写真の撮り方ページ」と「月例コンテストページ」がありますが、それ以外はほとんどカメラ・レンズ・写真用品の紹介・そして広告。コマーシャルフォトが特集で行なっていた「有名写真家が実際に行なったライティングを詳細に図解したページ」といった、非常に役に立つ情報はカメラ雑誌にはありませんでした。

 

日本カメラ

表紙を見てもカメラ&写真用品記事の比率が高い


 

イタリア発のネット&書籍連動型マガジン(現存)

Pixel Photo Magazine

(カメラ雑誌ではない)

 

こうしてカメラ雑誌が写真雑誌と混同されていたことも、写真とカメラが混同して使われていたことと連動している気がします。

 

 

  4.撮って出し

 

写真は、鑑賞者に作家の意図をきちんと伝え、作家が意図した通りに鑑賞者の心に響くことを目指す、ARTの一つのジャンルです。

これはカメラ・写真が元々絵画と共に生まれ育ったことと関係しますが、今でもアート系の海外FB投稿グループの中には、絵画とデザインと写真のみ投稿可と謳っているグループもあって、狙い・手法は殆ど同列と捉えられています。

 

そして「1.写真部時代に学んだこと」で書きましたが、写真は鑑賞者の心を対象として丁寧に仕上げて最終作品を見ていただくもの。偉大な先人たちもそうしてきています。

もちろん、ARTの本場である欧州では、写真家は現在のデジタル写真もとても丁寧に仕上げています。

 

 

また、先日伺った「全日写連 第82回国際写真サロン巡回展」(私のレポートはこちら)を見て感じましたが、現在特にアジア諸国の作家のレベルは向上していて、国際写真コンテストに入選したミャンマー、ベトナム、タイの作家の作品を見ると、欧州のARTに根差したしっかりした作品ばかりで驚きました。

 

海外作家の作品たち

 

もちろん、それぞれ作品プリントを展示しているので当然データはPhotoshopなどできちんと仕上げられていて、その仕上げのレベルも相当なもの。

一概に比較はできませんが、日本人作家の作品と比べてレベルが高いと言わざるを得ないものも多数ありました。

 

一方、日本のFacebook写真投稿グループなどを見ていると、多くはありませんが、未だに「撮って出し」と付記して写真を投稿している人がいらっしゃいます。

 

この「撮って出し」と書く意味ってなんなのでしょうね。

 

世界の(日本でも)一流フォトグラファーは、みな撮影したあと仕上げにも全力を尽くして作品のレベルを究極まで上げ自分の世界を表現する作品にしています。

もちろん印刷物にする場合も、その媒体によって仕上げを変えます。

 

しかしながら、古くから日本の写真コンテストはカメラメーカー主導のものや、カメラメーカー協賛のものが多かったため、(これは憶測ですが)あまり加工された写真はカメラの広告的に使えないことから、コンテスト等の投稿に撮って出しが要求された歴史は理解できます。

 

が、例えば海外Facebook投稿グループや1x.com等様々な海外作家の作品を見ると、これはかなり以前からそうですが、海外では「撮って出し」(元データのまま)を作品として人前に出すということはあり得ないと思います。

 

ところが、日本では未だに「撮って出し」という言葉を見る機会が多いのが現実。

 

うーん、これ。

これは、もしかすると今でも「写真=カメラ」(つまりシャッターを切った時点で写真の全工程が完了する)と捉えている文化が根強く残っている影響かもしれないな・・と、これにも妙に納得してしまいました。

 

 

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございます。

初めてのコラム、いかがでしたでしょうか。

 

連休も今日まで。

明日からに備え、ゆっくりと英気を養いたいものですね。