全国都道府県を巡った旅の思い出を、時には思い出しながら県別に整理をしています。宮城県の風景になります。


岩井崎 宮城県気仙沼市波路上岩井崎    (2018年11月撮影)
右側にある龍のような造形物は、説明板によると、平成23(2011)年3月11日午後2時45分に発生した東日本大震災では、ここ階上(はしかみ)地区も高さ17mあまりの津波に襲われ、多くの方が犠牲となりました。若井崎の松の木も多くが倒され波にさらわれましたが、波が引いた後、岬先端部に1本の松が残され、その姿は、まるで海に向かい津波に立ち向かう龍のようであったことから、いつしか「龍の松」と呼ばれるようになりました。

龍の松
大震災から時がたち「龍の松」は、海水による傷みが激しく枯死状態となりましたが、地域の方々や岩井崎を訪れる方々の多くの声と熱意を受け、本市では「龍の松」を被災から立ち上がる気仙市民の復興への希望の象徴とした、大震災の記憶を後世に伝え、鎮魂の思いを胸に未来に進む気仙沼市民の強い意志を表すため、長く保存することといたしました。この保存事業は、全国の皆様、世界中の皆様から気仙沼市民にいただいた温かい御支援によって実現したものであり、深く感謝申し上げます。これからもわたしたちは、「龍の松」のように震災に負けず、強い気持ちを持ち続け、復興、更には豊かなふるさと創りに向け前進します。
平成28年(2016年)2月27日 気仙沼市
潮吹き岩
海水によって浸食された石灰質の岩の割れ目から潮が吹き上がるようすです。
岩井崎灯台
この灯台は1929年(昭和4)10月に初点灯して、当初は階上村(はしかみむら)が管理していましたが、1949年(昭和24)7月に海上保安庁に移管されています。また、1966年(昭和41)に改築されたようです。
気仙沼線跡 宮城県気仙沼市本吉町三島
道の駅「大谷海岸」裏に有ったこの路線は、東日本大震災により、沿岸部を走行する柳津駅 - 気仙沼駅間が大きな被害を受け不通となり、2019年(令和元年)11月12日には不通区間の鉄道事業の廃止届が国土交通省東北運輸局に提出され、2020年(令和2年)4月1日に廃止されたようです。
献花台
気仙沼線ホーム跡に有りました。Googleマップを見たら上の写真のレールも、この献花台も見当たらずきれいに整備されていました。
志津川湾 宮城県南三陸町歌津    (2018年11月撮影)
歌津崎から見える風景です。ここ歌津崎は、歌津半島の先端部、志津川湾の北側を区切るのが歌津崎で、遠くに牡鹿半島、金華山を望むことができ、通称「尾崎」と呼ばれています。先端には尾崎神社が祀られており、源義経が奥州に身を移した1186年に勧請し、1704年に再興したと伝わます。
歌津埼海岸
参道沿いの黒松は、慶長年間に黒松の苗、種子を浜松から取り寄せ要所に植林されました。泊漁港から坂を上がった高台に灯台があり、そこが泊浜唐船番所跡です。藩政時代に外国船の出入りを監視するために設置されたもので、番人として大坂平太夫が常駐し、 代々監視の任にあたりました。
歌津埼灯台
歌津崎は、複雑な岩礁であるためアワビの宝庫であり、 昭和3年11月、昭和天皇の御即位の大礼が京都御所において執り行われた際、歌津名産アワビが献上されました。と、説明板に有りました。
寄木漁港 宮城県南三陸町歌津
手前の島は松島になります。
横たわるモアイ 宮城県南三陸町志津川
サンオーレ袖浜にある岩。右側の頭の辺りが、なんとなく言われて見ればって感じですかね?
荒島(あれしま)
モアイ岩の右側の風景です。この島は南三陸町の旧家・佐藤家が所有し、ここには荒島神社がある。この島は国際認証森林に登録されているため、一日の入島人数や森に入る際の装備にルールがあるそうです。
モアイ像 宮城県南三陸町志津川
八幡川に架かる館下橋(たてしたばし)の欄干親柱です。下の石碑には、昭和35年5月のチリ地震津波により志津川町は最大の被災地となった。津波の被災体験を風化させない為の啓蒙と同じ被災地であるチリ共和国との友好の絆としてモアイが設置されている。と彫られています。
八幡川
館下橋からの風景です。空がきれいに写っていましたね。
登米町(とよままち)教育資料館 宮城県登米市登米町寺池桜小路    (2018年11月撮影)
明治21年(1888)、二年半の歳月をかけて落成した、当時の洋風学校建築を代表する旧登米高等尋常小学校。
正門
純木造の二階建で、正面に向かってコの字型に建てられている。館内には明治以後の教育史、各時代の教科書やなつかしい再現教室等を展示しているようです。