僕がお酒と友だちになったのは二十歳、というのは真っ赤な嘘、ルー大柴さん的にいうとレッドな嘘で、本当はその何年も前に契りを交わしていました。母さんに「あんな悪いお友だちとお付き合いしてはいけませんよ」って云われなかったのをいいことに、高校生時代から「酒」たちと手をつないで快楽の道を歩み始めたのであります。母さんのせいだ…。
ま、それはここだけの話にしてもらうといたしまして、これだけ長い期間交友関係を続けていれば、つまり酒を飲み続けていれば、人並み以上に痛い目、辛い目、憂き目、弱り目に祟り目に遭うのは、数学でいうところの確率的に見ても、宗教学でいうところのバチ当たり的に見ても原理・道理にかなうというものでございます。「頭は痛いし、とにかく気持ち悪い、けど今日一日を過ごさねばならない」って日はそりゃもう何度もありました、つまり二日酔い。
そんな数えきれないくらいの艱難辛苦を積み重ね、最近になってようやく(バカだね)気づいたことがあります。それは、飲み過ぎた翌朝、目覚めた直後の二日酔いレベルというものは、ピークの概ね40パーセント前後(あくまでも個人の感想です)、ということ。
もう少し具体的に解説するならば、目覚めた当初から頭痛はそれなりにあって、特にこめかみあたりの血管なんか破裂しそうなくらいパンパンになっていて、ああきっと頭ン中では脳みそも圧迫されているのだろうなって自覚できるのだが、一方で胃腸周辺の事変因子はどうやら非合法アジトで息を殺しながら隠れているだろう、そして油断していようものなら「腹減った、朝めし喰えるぞ」なんて無謀で違法な伝令を弱った頭脳に送ったりして、奴らは非常に卑怯なシステムを持っているのだ。
ところで、酒飲みには妙なプライドがあり、たくさん酒が飲めてしまったり、酒に強いことをなんとなく自慢する傾向がありまして(あくまでも個人の主観です)。あれだけ飲んでもへっちゃらな僕ってすごいな、ってそれはあくまでもピーク前だからなのだが、ところであいつは大丈夫かな、とか夕べ一緒に飲んだ同僚のことを心配する余裕かましたり、よせばいいのにスキップで出勤しちゃったりして、でも会社に着くころスキップに呼び起されたのでしょう、非合法アジトに隠れていた危険分子が薄笑いを浮かべながら階段を登ってくるのであります。
僕はこれを「長らくお待たせいたしました、青空球児好児師匠往年のギャグです、はいどうぞ」の法則と名付けました。詳しくは「青空球児好児往年のギャグ」で検索。
大の大人が二日酔いになるなんて嘆かわしい、見苦しい、って心底思っているのは他ならぬ「二日酔い真っただ中」の当の本人なのです。僕も、人が二日酔いで苦しみのたうち回っているのを、何度目の当たりにしてきたことか。しかし、それを見て心にわき上がってくるものは、決して「軽蔑」なんかではなく寧ろ「同情」ですね。「同類相哀れむ」という美しい日本語があるではないですか。
えーっ、飲み過ぎたんだ、そうかそうか苦しいよね、わかるよ、話しかけてもいい?いやいや、無理しないで、あんた喋ったら、ふふふ、青空球児好児師匠がくるよ、ゲロゲーロ…って心から憐れんでさしあげることができるのです。
さらには、「人の振り見て我が振り直せ」という、先人たちが日常生活の中から哲学を見出したかのような、まさに世界に誇れる啓示ワード。飲み過ぎて死にかけた芋虫みたいに蠢いている人を見たときにこそ、このワードがキューっと沁みてくる。そうまるで、すきっ腹に流した一口目の酒のように。
しかし、つい続けて二口三口と飲んでしまうものだからすっかり忘れてしまって、いつの日にか自分が十五回目くらいの(ちゃんと数えたことないけれど)死にかけた芋虫になっていたりするものなのです。げろげーろ
