真理子が突然、店にやってきた。もうかなり遅い時間だ。客はみんな引き上げてしまって誰もいない。自分が聴きたくてかけたストーンズの「レット・イット・ブリード」の長めのイントロが終わったころだった。

「まだ閉めないの?」

酔っているのか素面なのか判別のつかない口調、でもいつものことだった。

「あと五分遅かったら、ドアにロックをかけていたね」

「シャッターも下ろさないで?」

「ああ、ひとりで飲もうかなって思っていたところでさ」

「あはは、わたし付き合ってあげる」

僕は無言で無表情のまま入り口の照明を消した、そのとき何かを飲み込んだような気がしたが、それはほんの小さな喜びだったのかもしれない。

 

「何を飲む?」

「トシミツと同じもの」

ずっと年下のくせに、昔から僕のことを呼び捨てにしやがる。

「で、なに飲んでいるの?」

「グレン・モーレンジー。ハイランドのシングルモルト」

「それは知らないなぁ、なーんちゃって、ウイスキーのことなんていっこも知らないけれど、あはは、どんな味なの」

「バニラフレバーで、スイートなのだけれども後味がちょっとスパイシー、ってところかな」

「へぇ、ずいぶんと詳しくなったね」

「って、ネットで読んだ 」

なかなかの軽口のつもりだったのに、二人ともちょっとだけ口元が動いただけで、ちょっとだけ目と目が合って、なぜか同時に慌てて目を逸らしてしまった。そこに、チャーリー・ワッツのドラムが割り込んでくる。

 

「お前、ついに離婚したんだ」

「何で知っているのさ」

「っていうか、お前、自分でフェイスブックに書いただろう、苗字を旧姓に変えてさ」

なぜか今気づいた、僕が「お前」と呼ぶのは彼女だけであることを。どうしてなのだろうかと、今さらながらに考えてみた。僕は昔から友だちにも同僚にも部下にもガールフレンドにも、もちろん元妻にだってそんな二人称は使わなかった。どうしてこいつだけ、そう呼んでいるのだろう…「こいつ」?

 

前の職場の同僚の奥さんの友だちみたいな、今となっては思い出すのが面倒なくらい曲がりくねった関係図で僕と真理子はつながっている。月に数度顔を合わせることもあれば、一年近くブランクが空くことも何度かあった。でも、なぜか再会すると、最初の挨拶抜きでいきなり会話が始まるのだった。まるで「さっきの話の続き」みたいに。

 

ところで、二人の間には恋愛感情はまったくない、かといって「友だち」なんて陳腐な言葉も使いたくない、もっと特別のものだ。前の職場を辞めてここにバーを開いたとき、それまでのいろいろなことを一旦断ち切りたくて、僕はほとんど誰にもそれを知らせなかった。当然、真理子にも。でも気がついたら彼女はこの店のカウンターに座っていた、しかもいつの間にか指定席みたいなものができていた。

でも、僕はそれが至極当然のことのように思っていた。他人にはうまく説明できないけれども、待ち合わせとか連絡を取り合うなんてことをしなくても、気がついたら会うことになっている、僕と真理子はそういう関係なのだ。

 

「で、そっちはどうなのさ」

「そっち?ああ、プロのミュージシャンになるのは諦めたさ」

「…へえ、その歳になってようやく気づいたんだ、才能がないって」

「はぐらかすための冗談に乗ってくるなよ」

「あはは、で、どうなの?」

「こっちも、もう独身になった」

 

僕の離婚は、真理子とは無関係だ。無論、彼女のそれに対しても僕は何も関与していない。そもそも、お互いの家庭については二人とも無関心だった、というか興味がなかった。真理子のことは好きだ。それは「嫌いじゃない」というニュアンスとは違うものであり、「どちらかというと」という接頭詞も付かない、本当にピュアなもの、そういう「好き」もこの世にはあるのだ。

僕はずっと彼女は幸せな結婚生活を送っていると信じていたし、それが自分自身の幸せのようにも思っていた。

でも、最後に会った先月、そのときも今と同じくここのカウンターの向こう側とこちら側で二人きりというシチュエーションだった。そこで初めて彼女の口から自分の離婚をほのめかす言葉を聞き、そして本当に偶然なのだが、僕も僕で似たような状況が進行していることを話していた。

CSN&Yの「デジャ・ブ」のA面が終わり、レコード針の先端が盤を離れる瞬間に立てる小さなノイズの後に続く静けさがまるで質量を持っているかのように思えて、僕たちはずっと黙り込んでいた。

 

今ここでも、ちょうど音楽は終わって静寂が始まった。

「どうしてさ、あの夜…」

「あの夜?」

「私が離婚を考えているって話をして、トシミツも真似して同じようなこと言った夜」

「真似したわけじゃないよ」

「あはは、わかっているって…でもあのとき、どうして私に手を出さなかったの?」

何をいいだすんだよと思ったけれども、実際あの夜はそうなってもおかしくなかった。

どうしてって、そうだな、どうしてだろう。うまく説明できないけれど、でもお前にはわかるだろう?世界でたった一人、お前と呼べる真理子にだけはわかって欲しい、それなのに言葉にできない思いが緩めたネジのように飛び出して、僕は壊れたおもちゃのロボットのみたいな顔をしていた、と思う。

 

「でも、あれでよかったんだよ。あのときに手を出されたら、私幻滅していたかもしれない」

「真理子、お前…」

「私自身に幻滅していたと思う」

「…明日は寝坊できるのか?」

「うん」

「もっと飲もう。あ、レコード何をかけようか」

「おじさんの古い趣味に任せる、あはは」