文春連載「ジュリーがいた」第4章⑤ 裕也さんのエピソードはよかったが、新ネタ不足で次回が3月掲載 | あの頃のショーケンになりたかった! エコケーンの日記

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グループ・サウンズやローリング・ストーンズなどのロック、モーニング娘。などのアイドルに昭和プロレス、映画に落語に食べ物や大阪に関することやそのうえお城も好きで、見たり聴いたり、その時に感じたことを書きたい備忘録日記、、、、

 昨日発売の週刊文春1月27日号、新聞広告には載ってませんでしたが、前回と同様、文春連載「ジュリーがいた」第4章「たった一人のライバル⑤

 見出しが「ライバルだったと言えるとすれば、沢田研二です。」

 2019年のまだ早い春、ショーケンは静かに逝った―――。

 

 文春連載「ジュリーがいた」習慣となっていたので、ついつい購入。

 この4頁が目当てでしたが、もはやネタ切れなのでしょうか、、、、

 

 ラストの欄外には「当連載は今後も時期をあけて連載します。次回は三月掲載予定です」とか、、、

 

 この連載「たった一人のライバル」

① 田中實って誰やねん!」(12月17日記)

② 蜷川幸雄編は面白かったが、ショーケンと二人で観た映画は?(12月24日記)

③ 年明けの第4章③はショーケンがいた!だった、、、(1月7日記)

④ 文春連載「ジュリーがいた」第4章④レコード大賞と佐藤輝証言にサザンのヌードマン(1月13日記)

 で、刮目し書いてきましたが、、、、

 

⑤の冒頭は

「萩原健一がその生涯でライバルと認めた男はただひとり、沢田研二である。彼が「恋人」と呼んだ男もただひとり、沢田研二だけであった。」で始まる。

 

 そして、ジュリーとショーケンが精神的ホモセクシュアルな関係ではなかったかとか、PYGのステージでジュリーとショーケンが男同士のキスを演じることがあったとか、映画「真夜中のカーボーイ」の話もでてきましたが、、、

 

次の項目は「さあ、別にないみたい

Q.今、一番興味あることは?

 J:さあ、別にないみたい

 S:日本の政治。中国問題

Q.読書

 J:本はまったくダメ、マンガ位で

 S:読む方だな。特に小田実のものなんかいいね。高橋和己を読んでいる。

 これが72年当時の渡辺プロのFC誌「ヤング」からの引用で二人の答えは対照的だったと書いているが、ナベプロが戦略的にやっていたのかもしれない。

 

 また、中高時代は二人とも不良だったと公言しているが、萩原は軟派で、沢田は硬派で喧嘩が強かったとも、、、

 

次の「ジュリー・コンプレックス」の項

ザ・タイガースのマネージャーの証言

内田裕也さん「いつまでたっても、沢田と会うとあがっちゃって、ドキドキしちゃうんだよな」と言っていました。

 

 ありゃ、これは「沢田研二2022年初詣ライブ」1月14日の大阪フェスでの沢田さんのMC

 「裕也さんは間違いなく僕が好きやった。

 色々言ってくれて、人伝えでなく 直接言ってくれればいいのに。」

 を思い出しましたね。

 

 で、ジュリー・コンプレックスとショーケン・コンプレックス、二人にはお互い相手にコンプレックスをもっていて、81年「サヨナラ日劇ウエスタンカーニバル」の時、内田裕也と二人が鼎談して、「互いがいたからここまでくることができた。」と語り合ったとか、、、

 いい噺ではあるが、他の箇所には雑誌の出典や関係者の証言である旨、明記されているが、ここだけ書かれていないのが、気になるんだなぁ、これが、、、、

 

ウッドストックの真偽」の項

 後年の萩原は、尊敬していた監督や脚本家、自分とは演技法が違う共演者を批判するようになり、沢田への批判もあった。

 ウッドストック体験を語り始めたのは、2010年頃からだった。ところが、これは「何かの間違いじゃないですか」との同行者からの証言をとっていて、「なぜ、60歳の萩原にウッドストック体験が必要だったのか。なぜ関係者への批判を始めたのか。そこはショーケン研究者の論考に委ねたい。」

 なお、沢田への批判の根拠は自伝「ショーケン」とか、、、

 胸が痛むと書きながら、死者に鞭打つような感じだったのは残念でしたね。

 

いやぁ、まいったなぁ

 

 シメが2019年5月9日のショーケン追悼のジュリー発言

 「俺はあいつが大好きだったんだ!」

 それは真実でしょうね、、、しみるなぁ、、、

 

「ジュリーがライブでショーケンを追悼した言葉、しみるなぁ(2019年5月14日記)」”