ホアキン・フェニックスが、日常のささいなことでも不安になってしまう怖がりの男、ボーを演じている。この恐れが映画そのものを進行させていく。

 監督はアリ・アスター。意味不明な恐怖やそれを感じさせる風景、出来事を愛する?監督だ。起こる事件などは、前衛的というか、シュールというか、部分的に象徴的で、そのくせ謎解きをかく乱する、意味不明な不安に苛まれたボーの心象風景とも言える。

 とにかく不安なのだ。彼の住む下町のアパートの前では、人は死んでいるし、全身入れ墨男がアパートへの侵入を試みている。クレジットカードは何故か使えないし、という小さな不安から、事故に遭遇したり、さらにはもっと、とんでもないことに巻き込まれていく。

 このローラーコースター映画、観客はどうしても謎解きしたくなるのだが、そんな努力もむなしく裏切られていく。そしてシーンの各所に散りばめられた小さな不安。「頭のケガは、血はたくさん出るけど、すぐにとまるわ。ほら、私の父は出血多量で死んだけど」みたいな、観客は笑うけれど、ボーにとっては恐怖が満載だ。

 この映画の特徴は、恐怖の渦だけではなく、構造的なタッチがどんどん変化していく実験性だ。下町のアパートメントの暴力的恐怖。助けられた外科医の家での不穏な感覚。そこから逃げ出した後、救われる森の中の演劇。映画の中の演劇集団の演劇の中に展開する、ボーの願望を聖書の話のように感動的に語る部分。そして核心的な母親との葛藤。そして、子宮回帰のような部分へと、というように変化していく。キーワードは「水」らしいがそんなことは考えなくてよい。

 他の出演者に「プロデューサーズ」のネイサン・レイン、「ブリッジ・オブ・スパイ」のエイミー・ライアン、恐怖の暴力男に「理想郷」のドゥニ・メノーシェなど。

 頭の良い監督の夢想に近い新しい映画だが、アカデミー賞の「エブ、エブ」同様、観終わった後、何も心の中に残ってこないのは何故だろう。考えると、イギリスのロックミュージカル「トミー」(1975)しかり、古くはフェリーニによる「魂のジュリエッタ」など、イメージ豊かで、手が込んでいるけど、観終わって何も残らない作品もある。まあ、古臭い言い方をすればカタルシスがないということかも。「カタルシス?そんなものが映画を不純にするし、娯楽に持ち込まれればプロパガンダに利用されるのだ!」と過激な過去の私なら言うかもしれないが、カタルシスだけでなく、観客が映画から刺激され、記憶を形成するものがないのかも知れない。フェリーニを例に挙げたからいうと、「甘い生活」にあって、「魂のジュリエッタ」にないものがヒントかも知れない。

 本作に戻ると、約3時間の大作。これだけ不可思議な映画なので、多くのレビューが出ている。観た後に読み比べると映画が2倍楽しめる。「長い作品は苦手」という人もいるだろうが、同一料金で二本観たと思えばラッキーだ。アメリカ映画の変革が期待できる作品かも。

 2024年2月公開。