ビクトル・エリセの31年ぶりの長編映画だ。エリセについては書く必要はないが、169分の大作である本作、ある俳優が失踪する直前に撮影された映画「別れのまなざし」の物語と(これはフィルムで撮影されている)、その俳優フリオの親友で監督ミゲルが22年ぶりに失踪事件と向き合っていく二つの物語が語られていく。(こちらは今風のデジタルだが、アスペクトレートは1.66 : 1のユーロピアンビスタ)

 まず、最初の印象は「凄いもの見せられたな」ということ。「マルメロの陽光」(1992年)あたりでは、ずいぶん丸く年老いたなという感が強かったが、再び復活!

 この長い映画は、ある種エンターテインメントの部分を持ちながら、観客が映画作家からの、短いキーワードとイメージを受け取りながら、自らの経験や記憶を紡いでいく作品だ。だから「あー!考えたくない」という方にはお薦めしないが、今一度、映画という他者の物語から、自分の記憶や物語を探りたいという、冒険心のある映画ファンには極めて面白い映画といえる。

 象徴的に過去の映画のモチーフとして登場するヤヌス像。二つの顔を持つ像は、若い顔が未来を見つめ、年老いた顔は過去を追憶する。劇中の未完成映画「別れのまなざし」の編集者マックスの家に飾ってあるポスターだけでなく、どうやら息子を失っているミゲルの思い出の品の中に登場する「ラ・シオタ駅への列車の到着」のパラパラ写真カードなどが、観客を映画の世界に導いていく。

 やがて、映画は思い切った展開を見せる。その中でも映画は使われている。マックスがミゲルに、「1本の映画が奇跡を起こすとでも?」「ドライヤー亡きあと、映画に奇跡は存在しない」というが、カール・ドライヤーのことだろう。

 そして、不思議な言葉「永遠に終わらない映画」。

 この作品に対して、意味は何か?などと記号を解析する必要はない。観客は観客なりに身をゆだねればよい。時には瞳をとじても。

 本作の監督エリセが公式HPの中で述べている言葉を引用しよう。主人公を映画監督にしたことについては、「私は映画の脚本を、自分で書いている。その半分は経験したこと、半分は想像から生まれた。だから、私が人生において最も関心を抱いていることが、作品のテーマだと考えるのは自然なことだ」と。「プロットの細部を積み重ねた果てに、この映画が観客に向かって描こうとする物語は、密接に関わる2つのテーマ “アイデンティティと記憶”を巡って展開する。かつて俳優だった男と、映画監督だった男。友人である二人の記憶」だとも。

 したたかな映画だ。観客は自らの記憶やあるいは「やらなかった過去」と対峙しながら映画と付き合わなければならない。それはまさに創作的な世界だ。「瞳をとじて」も終わらない映画はあるのかも知れない。もちろん「未完成の映画」も永遠に終わらない。

 映画監督ミゲルにマノロ・ソロ。失踪したフリオにホセ・コロナド。フリオの娘として登場するアナはアナ・トレント。「ミツバチのささやき」の可愛い少女もいい感じで年齢を重ねている。

 今年は、ヴィム・ヴェンダースやアキ・カウリスマキ、そしてビクトル・エリセ。爺さんたちの活躍と、そして長編第一作という若い監督の台頭もあり、たのもしい。

 2024年2月公開。