中国の監督、ロウ・イエによる、太平洋戦争直前の上海で繰り広げられるスパイ映画だ。本来はあえて観たいとも思わないジャンルの映画だが、ロウ・イエ監督への興味から鑑賞した。

 物語は真珠湾攻撃直前1941年12月。人気女優ユー・ジンは新作舞台「サタデー・フィクション」に主演するため上海を訪れる。彼女は、女優であると同時に諜報員だ。その2日後、暗号通信の専門家である古谷三郎海軍少佐が、暗号更新のため上海にやって来る。

 古谷の亡き妻によく似たユー・ジンは、太平洋戦争開戦の情報を得る目的で、古谷に接触するというもの。何だか古い日本映画(それはフランス映画やフィルムノアールに影響を受けたもの)のような、よくあるプロットだが、ロウ・イエの不思議な映画的世界観が独創的だ。モノクロで表現されたホテルの室内がいつしか舞台上に再現された舞台セットと入れ替わり、現実と舞台上のフィクションがスリリングに交差する。

 もちろん舞台上のユー・ジンと演出家・俳優のタン・ナーの純愛は虚構のようだが(二人は本気で愛し合っているようにも見える)、日本人の古谷や同行の梶原、各国のスパイの暗躍は、映画の中では現実という設定だろう。

 まあ、はっきり言うと日米開戦前夜のスパイ戦などという、いわば映画的には幼稚な内容を芸術的に昇華させようという試みかも知れない。

 血なまぐさい殺し合いや80年近く前の上海を妙なリアルで表現するボケ味のきいた撮影は見事だ。時代の空気のようなものを再現している。

 人気女優ユー・ジンを「さらば、わが愛/覇王別姫」のコン・リー、タン・ナー役にマーク・チャオ、古谷三郎海軍少佐にオダギリジョー、屈強な軍部のスナイパー梶原に中島歩が起用されている。

 で、かなりの完成度と映画的な大胆な試作がなされた作品であることは大評価できるが、なんだかピンとこない映画でもある。というのは、この世界を見たいと希求する映画作家にとって、何が獲得されたのか?何が魂を震わせたのか?という点。これだけの監督だから、「魔都上海と芝居サタデー・フィクション、さらにマジックミラー作戦がスリリングに交差する新しい手法」なんてこと、予想できた結果ではないか?また観客にとっても、面白い構造だったし完成度が高いだけではどうなのだろう。あえて過去の時代から何を見るのか?人がどんどん殺されて面白いのか?何だかいただけないと思うのは私だけか?

 「天安門、恋人たち」以来5年間の映画制作・上映禁止処分となったロウ・イエがフランスで撮った「パリ、ただよう花」などはとても好きな映画だった。

 前作「シャドウプレイ」は、不可思議な都市を再現した試みは抜群に面白かったが、内容的には汚職など、中国社会の欲望を取り上げてはいるがなんだか凡庸な印象だった。

 もちろん、この映画での試みは、新しい映画のヒントに満ちているから、映画づくりに興味のある観客には刺激となるもので、観る価値は大ありだ。時代背景を再現した努力も大変なものだが、最後に一つだけ重箱の隅をつつかせてもらうと、マジックミラー作戦で登場するテープレコーダーは、ドイツ製のマグトフォンの筈だが、そこで登場したのはステレオVUメーターのテープレコーダー。まさにオーパーツである。

 2023年11月公開。