「新聞記者」や「ヴィレッジ」などのプロデューサー河村光庸が、辺見庸の同名小説を映画化した力作だ。(河村Pの遺作でもある)

 相模原障害者施設殺傷事件は記憶に新しい。知的障害者福祉施設、津久井やまゆり園で入所者19名が殺された事件だ。その事件を背景に、「心のないものは人間ではない」という狂った正義に殺人を正当化する、さと君(磯村勇斗)と呼ばれる職員。女性職員の坪内陽子(二階堂ふみ)、そしてこの施設に非正規社員として雇われる、書けなくなった小説家、堂島洋子(宮沢りえ)、そして彼女のことを師匠と呼ぶ夫の堂島昌平(オダギリジョー)らが、この物語を息苦しく進行させていく。

 脚本・監督は「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」「茜色に焼かれる」の石井裕也。

 本作は、単なる社会派映画ではない。観客は、映画を観ることで安全に何かを知ることはできない。気持ちの良い社会正義に酔える作品でもない。映画の中で投げかけられた言葉に、反証しながら、抗うことができない心の闇に気づかされる。

 私たちは、差別は良くない。誰にでも生きる権利がある。そんなことは分かっていても、どこか内なる優性思想や、どこか他者に対して自分勝手な判断、線引きをして、他者をないものとして見てしまう。

 また、主人公である書けなくなった作家・洋子と夫・昌平も障害を持って生まれた我が子を亡くしている。そんな彼女は再び子どもを妊娠する。設定は厳しく判断を迫られる状況を提示する。

 今は産まれる前から性別だけではなく、障害を持って産まれる確立まで分かる時代。そこでも何らかの判断はなされる。産まない選択もあるのだ。

 だから、実際の事件の犯人の「障がい者は不幸しか生まない」という勝手な理屈を明確に否定できず、色々と考える「心ある人」のみが傷ついていく状況が生まれる。

 主な登場人物の4人は「ものをつくる人」でありながら、「うまく作ることができない人」で、書けなくなった作家であったり、小説家にあこがれるが一度も認められない坪内陽子であったり、絵がうまいのに書くことを断念したさと君であったり、夫の昌平もアニメ作家である。

 だから彼らは一応に言葉をうまく操るし、悩んでいる。どこかにうまく人生の着地点を見出したいとしている。それだけに罠が仕組まれる。

 「心のないものは人ではないから殺しても良い」という犯行の正当論に捕らわれてはいけない。何をもって「心がない」と判断するのか?話せないからか?コミュニケーションがとれないからか?誰も判断は出来ない。だから、そんな問いに答えるから、いわゆる罠にハマるのだ。

 簡単な話だ。移植医療を行う時にも、人の死を「脳死判定がなされた時」となっているはず。

だから、意識があるとかないとか、そんなことは判断の材料にならないのだ。

 観終わった後、ずっと映画の中身を考え続けている。殺人鬼に成り下がった、さと君の彼女はろうあ者の設定だ。色々考えて、それを楽しめる観客には、たっぷりな内容の、お得な映画であることは間違いない。石井裕也の緻密なシナリオと、宮沢りえら俳優たちの演技力も楽しまる。すこし、重いけれど・・・。

 2023年10月公開。