ドキュメンタリー映画監督、森達也の自身初となる劇映画作品。1923年9月1日に起きた関東大震災直後の混乱の中で実際にあった虐殺事件・福田村事件を題材にした、極めて事実に近い劇映画である。

 映画では、その虐殺事件だけではなく、広くその時代を描こうとしている。事件そのものは、大震災の後に朝鮮人が暴動を起こすだの、井戸に毒を入れただのという不安を煽る社会状況の中で、香川県三豊郡の薬売り行商人15名が、言葉が変だということで朝鮮人と間違えられ、9名が虐殺された(お腹の赤ちゃんを入れると10名)事件だとなっているが、それだけだと事件を矮小化している。

 映画では、背景を出来るだけ多く盛り込もうとしている努力が見て取れる。脚本は佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦の3氏が担当。

 大震災は突発的な不幸だが、虐殺などの事件は誰かが種をまかないと広がらない。誰かの噂などが原因ではない。日本の植民地支配下の朝鮮で、1919年3月に起こった民族独立運動(三・一運動)から、日本の新聞などは朝鮮民族に対する敵視を煽る主張を始めたことなども映画の中では、さりげなく触れられているので、「どうだったっけ?」と家に帰ってからの宿題でいっぱいだ。

 知らなかったこともある。被害を受けた行商の一行は、被差別部落出身の人々であったということ。

 映画の最初に村に戻ってくる戦死した英霊は、シベリア出兵によるもの。第一次世界大戦の後、連合国側だった日本は、他のヨーロッパの国々と共に、ロシア革命に介入するため出兵した戦争だ。

 堤岩里(チュアムリ)教会事件も。1919年4月、日本統治下の朝鮮で、三・一独立運動の最中に生じた事件で暴動を指揮した29名の朝鮮人が虐殺された事件だ。

 こういった負の遺産は、「忘れさせたい側」と「忘れたくない側」があるが、私は官憲でも権力側ではないので、「知りたい派」だ。

 映画の時代背景を理解した上で、映画に戻ろう。映画は日本統治下の京城(ソウル)から、澤田(井浦新)が妻の静子(田中麗奈)とともに故郷の千葉県福田村に帰ってくる場面から始まる。この澤田、何故か精気がない。その理由は?などは後にして、村の人々の様子が群像劇としてコラージュされていく。そこへ、旅して薬を売る事しか生計を立てることができない沼部新助(永山瑛太)らの一行がやってくるというもの。そこで起こる大震災と、その後の事件。

 監督の森達也の言葉を引用しよう「群れは同質であることを求めながら、異質なものを見つけて攻撃し排除しようとする。この場合の異質は、極論すれば何でもよい。髪や肌の色。国籍。民族。信仰。そして言葉。多数派は少数派を標的とする。こうして虐殺や戦争が起きる。悪意などないままに。善人が善人を殺す。人類の歴史はこの過ちの繰り返しだ。だからこそ知らなくてはならない」と。しかし、これおも利用する連中がいることも事実なのだから、それにも、もっと触れて欲しかった。

 が、よくできた映画であることは間違いない。村人らが「もしこの人らが日本人だったらどうする!」の言葉に「朝鮮人やったら殺してもええんか!」と叫ぶ沼部新助の言葉が心に残る。(被差別部落出身で人間扱いされてこなかった怒りが見える)また、これを取材する女性の新聞記者の発言も、森監督の真意だろう。

 褒めた後は批評をしておきたい。(批判じゃない)一流の脚本家が煮詰めたシナリオにはほころびがない。行動に対する理由や動機が見えるようになっている。それは、映画として良いことなのか?

 ジェイソンのような殺人怪物は意味不明だから怖いはず。「なるほど、こういう心情からトビ口で相手の脳天をかち割るのね」なんて分かってどうする?それに、まるで大正デモクラシーの象徴のような静子も不自然だ。だって・・・。もうやめよう。後は観てくれた方が考えてくれればよい。

 他のキャストに東出昌大、豊原功補、木竜麻生らがいる。彼らの好演も評価したい。久々のピエール瀧も懐かしい。

 色々書いたが、これだけの事実を調べ、劇映画に仕上げた努力に敬意を払いたい。

 2023年9月公開。