ブレグジット(英国のEU離脱)と,米イラン対立 | 大阪の弁護士 重次直樹のブログ

ブレグジット(英国のEU離脱)と,米イラン対立

ブレグジット,英国のEU離脱

 

日本時間の2月1日午前8時(英国時間1月31日午後11時),英国がEUから離脱した(ブレグジット)。

 

EUは,欧州諸国内の戦争を回避し,経済を立て直すため,独仏伊とベネルクス3国(オランダ・ベルギー・ルクセンブルグ)の「欧州石炭鉄鋼共同体」から徐々に発展した。戦争による疲弊,植民地の独立などにより,個々の国家では超大国米ソに対抗できない欧州諸国が,連合して米ソに対抗する手段にもなった。

 

特に,国家主権の移譲として,各国が自国通貨発行権を放棄して出来た統一通貨ユーロにより,EUとユーロは,米国に対抗しうる金融・経済・政治勢力になった。

 

もっとも,英国は統一通貨ユーロには参加せず,自国通貨ポンドを維持した

 

私から見て,英国のEU離脱は,特に不自然なことには見えない。

 

イラク戦争時にも,独仏などと異なり,英国(ブレア首相)は早期に米国支持を表明した。イラク戦争で米国と行動を共にした欧州諸国はユーロ非加盟国であり(英国,ポーランドなど),ユーロ加盟国は,仏独のように当初からイラク戦争に反対したか,徐々に手を引いた(イタリアなど)。

 

 

米イラン対立

私は,年初からの米イラン対立を冷めた目で見ていた。

 

米イラン対立の原点は,1979年のイラン革命・米国大使館人質事件にある。

 

ところが,1979年のイラン革命・第二次石油危機も,1973年の第四次中東戦争・第一次石油危機も,米国・ドルに極めて都合の良いタイミングで発生している。

 

以前からの当ブログやその他の私の投稿を知っている方には繰り返しになるが,

第一次石油ショックと・第四次中東戦争と,ドル急落からの回復

・1971年ニクソンショック(ドル金兌換停止),ドル切り下げの固定相場制

1973年1月英国EC(EUの前身)加盟,変動相場制

ドル急落→第一次石油ショック→ドル回復

 

第二次石油ショック・イラン革命と,ドル急落からの回復

・1977年よりドル下落(10月250円割)→1978年8月日中平和友好条約

10月180円割(底値)→11月米国大使館占拠事件→12月パーレビ国外退去

 

以上のとおり,米ドルを助けるように,イラン革命・石油危機が発生している。日本・イランの石油精製プロジェクト(IJPC)は大打撃を受け,イランイラク戦争で更に打撃を受け,挫折した。

米国とイラン革命政権の間には,イラン革命時から,表面上の対立とは裏腹に,強い協力関係・絆があるように思えてならない。

 

米イラン対立に対しては,私はずっと冷めた目で見ている。

 

 

ユーロ誕生,同時多発テロ,イラク戦争,第三次石油危機

誕生した統一通貨ユーロは,米国ドルを脅かす大きな存在となり,「ユーロバブル」と呼ばれる現象により,スペイン・ポルトガルで地価が急上昇するなど,EU内外の金融経済に大きな影響を与えた。

 

ユーロ誕生,イラク戦争と第三次石油危機

統一通貨ユーロの誕生後,同時多発テロ,イラク戦争となり,石油価格が再び高騰した。第三次石油危機と言われることもある。

 

現在では,イラク戦争の真因は,WTC同時多発テロではなく,フセインが石油のユーロ決済を始めようとして,米国の逆鱗に触れたことにある,という指摘は増えてきた。石油ドル体制を知るものであれば,石油ユーロ決済の小さな記事が出た時点で,ただでは済まない,と直感しただろう。

 

第二次石油危機の演出により,イラン革命は米国ドルを助けた,という見方は,さほど拡がっていないが,米イラン関係については,重層的な見方が必要だと思う。

 

イラク戦争への協力については,フランスを筆頭に,ユーロ諸国が米国と袂を分かち,ユーロ非参加の英国・ポーランドなどが,米国と行動を共にする,というように,欧州は分断された。

 

ブッシュ大統領は仏独を「古い欧州」と非難し,「新しい欧州」ポーランドなどに接近したが,イラク戦争の発生原因が石油ユーロ決済にあったように,実態はユーロvsドルの対立にあり,「古い欧州」とは,米ドルのドミナンス(支配力)に陰りを与えた統一通貨ユーロの採用国だった,と見てよいだろう。

 

英国は,もともとユーロ非参加国だから,今回のブレグジットによっても,米国・ドルに,EU・ユーロが対抗勢力として存在する,という基本構造に,余り大きな影響はないだろう。シティを失ったEUが,影響力低下を免れないとしても。

 

なお,米国は現在,対抗勢力として,中国に焦点を当てている。AIでは米中が突出し,欧州も日本も競争から取り残されつつある。競争,技術の次元が変わりつつある。

 

同時に,急速な技術進展により,世界は,国家・地域の対立を超えた,地球規模の協力・取り組みを必要とするようになっている。地球規模の課題への取り組み(温暖化,格差問題など)や,国家間を含む諸調整については,欧州も存在感を示していくだろう。

 

(本件記事は,特に,年賀状等でブログ金融記事への評価や期待を表明された方に向けて書いたものです)

 

 

(以下,追記)

米イラン関係:茂木誠氏,藤井厳喜氏の分析

茂木誠氏,藤井厳喜氏も,米イラク対立は大きくならないと予測していた。根拠は異なりますが,興味深いので紹介します。

 

1 茂木誠氏の分析 2020.1.10公開動画

「革命防衛隊とはコ○ンテ○ンである」「ロシア革命に学ぶイラン革命防衛隊」

 

ロシア革命は,レーニン死後,世界革命論(トロツキー)一国社会主義論(スターリン)の路線対立が生じ,マルクス・レーニンの世界革命路線を承継するトロツキーより,修正したスターリンが勝利する。

 

勝利したスターリンは,世界革命論派を徹底的に粛清する。

 

スターリンが世界革命論を否定し,世界革命派を徹底的に粛清したことは,ソ連が列強から承認される道を拓いた

 

この過程で,スターリンは各国共産党を見捨てる方向に動き,1943年,コミンテルン(第3インターナショナル)を解散する。

 

茂木氏は,革命にはエネルギーと理想が必要であるが,余りに理想が大きく世界革命を目指すと,各国の反発を招き,国家建設が出来ない,したがって,革命には理想とエネルギーが必要だが,一旦建設した国家・政権を維持するためには,そのエネルギー(特に軍部)を抑える必要がでてくる。理想の書き換えも必要になる。軍幹部の大粛清など荒っぽい方法を使って,これを行ったのが,処世術に長けた現実主義者,一国社会主義論のスターリンという。

 

他方,革命で軍が暴走したのがフランス革命で,軍事クーデターによりナポレオン軍事政権が誕生した(ブリューメルのクーデター)。さらに欧州全土に侵攻し,最終的に敗北,王政が復活した。

 

中国共産党の毛沢東も,政権掌握後,人民解放軍に手を入れ,林彪などが排除された。

 

ヒトラーも,財閥と手を組む必要を感じ,政権掌握に功があったが財閥解体を主張する突撃隊が邪魔になり,粛清した。

 

日本の明治維新でも,西南戦争は革命軍の暴走排除と言える。226事件でも,財閥・政党排除を狙う皇道派の軍事クーデターが排除された。

 

茂木氏は,革命過程におけるエネルギー主体である軍部が,政権掌握後,邪魔になり,排除される例を挙げた上で,イランの革命防衛隊は暴走する革命軍であり,今やイラン政権の邪魔になっている,と指摘する。

 

イラン革命の精神は,マホメットの正統な承継者であるシーア派を解放し,これを中東全体,さらに世界に広めることにあった。

 

革命はイラン国内では成功し,更に,ホメニイ氏がコミンテルン的な世界イスラム・シーア革命推進のため革命防衛隊・コッズ(Quds)部隊を作った。イランでは,王権時代からの国軍が残っており,これとは別に,革命防衛隊が存在する。

 

イラン国家・政権・国軍から見て,革命の輸出を目指すコッズ部隊は,ある意味,もはや邪魔者でしかない。

 

表面上,米国とイランは対立しているが,実際のところ,イラン政府は米国を激しく非難しながらも,実は,革命輸出で暴走するQuds部隊の中心人物が殺害されて,ほっとしている。スターリンにとってのトロツキー,毛沢東にとっての林彪,ナチスにとっての突撃隊,明治政府にとっての西郷軍が,排除されたような形になっている。

 

表向きの報道・プロパガンダと,実際の関係とは,大きく異なることを,茂木誠氏は指摘している。

 

 

2 藤井厳喜氏の分析 2010.1.9公開動画

・革命防衛隊は,最も対米強硬派。

・ホメイニ時代に出来た国家とは別の組織。

・軍事組織であり,財閥でもある,「国の中の国」

・イラン国内の相当上部から,ソレイマニの所在情報が,アメリカに漏らされた筈。そうでなければ,米国はドローン攻撃できない。

・イランの一部が,アメリカに頼んで,代わりに殺してもらった,というのが,藤井厳喜氏の見立て

 

 

3 コメント

藤井氏の分析,茂木誠氏の分析は,かなり共通する。いずれにしても,メディアが紹介するストーリーとは,全く別の筋書きを描く

 

ユーロ不参加の英国は,結局,EUから離脱した。

 

第二次石油危機で,米ドルを助ける形になったイランも,これに似ている。

 

米国・イランは,イラン革命の当時から,裏で相当強く結びついている,と考えるべきだろう。