2008年の5月に土方歳三お墓まいりツアーにいった時に初めて知りました。


柳川熊吉

明治2(1869)年、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。

「死ねば皆仏、官軍も幕軍もあったもんじゃねぇ。奴らの腐った根性が許せねぇ!」

と真向から異を唱え、お咎めを恐れて誰もが手を出せない状況にあった中、打ち首を覚悟して数百名もの幕軍戦死者の遺体を収容し埋葬したのが、柳川熊吉という侠客。

土方歳三資料館にいった時の、土方死後の処置状況の手紙にも、その名前があった。


2007年のツアーの時は「賊軍」の汚名をきせられた「無念の思い」を痛感したがこの年は
明治政府の見せしめに、死体が埋葬することが禁止されたという話を聞いてさらにビックリ!

日野ふるさと資料館に、当時の日本中の侠客の名前を書いたものが展示されていた。ガイドのおじさんの説明に「当時は官軍が怖くて、市民もどうしようもなかった彼らの屍を、博徒たちが集めて埋葬してくれた。当時の人はみな胸がすくような思いだったと思うよ」の言葉に納得。

私が勝海舟がすきなのは、江戸城明け渡しの会談の時に、普段から懇意の、東京の博徒の親分たちに以前から手回しして、江戸が戦地になったら市民を守ってくれと用意周到に準備していた所。勝さんの話になるととても長くなるので割愛するが。この年の日野ツアーで一番の収穫でした。




柳川熊吉について(文政8年(1825年)-大正2年(1913年)


幕末の侠客。道産子ヤクザの鼻祖とされる。江戸浅草出身。柳川鍋を商売としていたので姓を柳川とした。

浅草料亭の息子に生まれる。新門辰五郎が幅を利かせていた浅草で顔役となり、幕臣などとも交流があったと言われる。安政3年(1856年)、五稜郭築城のため自ら人員を率いて蝦夷地へ渡り築城動員を補佐。その後、箱館で江戸流柳川鍋を商売として生活していたが、箱館戦争が勃発し、敗北して賊軍とされた旧幕府軍の遺体が埋葬を許されずに箱館市中に放置されると言う惨状に堪えられず、実行寺住職・松尾日隆ら寺々や有志と協力して遺体を回収・埋葬して回った。明治政府に咎めを受けたものの、結果的に熊吉は処罰される事はなかった。

後に旧幕府軍の遺体を改葬して箱館山に碧血碑を建立。榎本武揚ら箱館戦争の生き残りの者達と交流を持った。碧血碑の管理を務め、大正2年に死去。享年89。熊吉の功績を讃える記念碑が碧血碑のすぐ傍に建てられている。

あくまで伝説ではあるが、熊吉の功労に対し榎本武揚は「北海道一円のカスリ全ては柳川一家のものとする」というお墨付きを与えたとされる。時が経ち、1898年頃千葉より函館に流れ着いた土方の森田常吉は代替わりしていた柳川の客分となる。盛時より落ち目となっていた一家を助けんとした森田はたった4名で函館を制覇。その後柳川の系譜を正式に継ぐと「榎本武揚のお墨付き」を理由に全道に進出しこれを制し、さらに3年を経ずに北海道、樺太、東京、東北など1府2庁6県にその勢力は及び最終的には日本制覇に乗り出したという。一門は手首にモモの刺青をいれていたとされる。
国家権力がこれを憎んだ結果、「大津分署襲撃事件」(1902年)を遠因とする「博徒結合罪」(刑法186条)により解散させられるその日まで帝国に君臨した彼こそ世にいうマルモ一家総勢二万人の首領<ドン>である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より

碧血碑(へっけつひ)とは?
http://www.hijikata-toshizo.com/khkke.htm