この先イタリアでずっと暮らすことのハードルが高すぎるとの判断のもと、イタリアを去ることにした我が家ですが、

 

 

 

「イタリアに来なければ良かったか?」と聞かれたら、決してそう言うことではなく、

 

 

 

むしろ、娘がシチリアで小学校時代を過ごせたことは、とても幸運だったと思っています。

 

 

 

娘の言語に関して言えば、前回の投稿で書いたように、英語圏で生活したほうが良いに決まっている。

 

 

 

でも、言葉ってそんなに大事だろうか?と思う自分もいるのです。

 

 

 

言葉が思考を作るものだとしても、人生の目的が「幸せに生きる」ことだとしたら、

 

 

 

高度なレベルで言葉を操れることと、幸せに生きることに関連性はあるのだろうか?

 

 

 

(もし、あるのだとしたら、文豪たちは幸せだということになるのだろうか?)

 

 

 

文豪といえば、イギリスの推理小説の女王アガサ・クリスティの名言にこんなものがあって、

 

 

 

"One of the luckiest things that can happen to you in life is, I think, to have a happy childhood."

 

 

 

(思うに、人生で起こりうる最も幸運なことのひとつは、幸せな子供時代を過ごすことだ。)

 
 
 
娘は、疑いの余地なく、シチリアで幸せな子供時代を過ごしたと思うのです。
 
 
 
シチリアでは、何と言っても、学校の先生やクラスメートたちにとても恵まれて。
 
 
 
インターとは言っても、イタリア人家庭の子が7〜8割を占める学校で、
 
 
 
イタリア語を喋る子だけで固まる方がよっぽど楽だと思うのに、
 
 
 
言葉の垣根を超えて、娘と仲良くしてくれた子どもたち。



直接の教え子であってもなくても、生徒達にたくさんの愛情を持って接してくれた先生がた。



娘をいつも気にかけてくれたママたち。
 

特に良くしてくれたママ。


 
気候は良く、すぐ近くには透き通る青い海があって、
 
 
 
近所の人たちは、娘を見るといつも笑顔で声をかけてくれて、



(昨日は学校帰り、近所のジェラート屋さんによくいて、日本語で「こんにちは!」と挨拶してくれるイタリア人のおじさんが、娘にデザート↓を奢ってくれました爆笑



 
 
時々義父の村に行けば、親戚のみんなが可愛がってくれて。



そこに、言葉はいらなくて。



もしかしたら娘は、言葉よりも大切なものを、ここで学んだのかもしれません。
 
 
 
 
子供は自分の環境を選ぶことができない。
 
 
 
そして、親がどんなに環境を整えようとしても、親の力の及ばないこともたくさんあり、
 
 
 
そこはもう、運を天に任せるしかない。
 
 
 
娘が大人になって自分の子供時代を思い出した時に、
 
 
 
シチリアで過ごした時間は、「幸せな子供時代」として娘の心を照らしてくれると確信しています。
 
 
 
そう考えると、娘は(そして私達も)とても幸運だったと言えるのでしょうねクローバーキラキラ