厳原町中村のミニ公園に顕彰碑完成
 
 全国的にも数少ない守護大名で対馬の初代藩主・宗義智公顕彰碑が
厳原町中村の公園に完成、このほど関係者により除幕式が行われました。
宗義智公は豊臣秀吉と徳川家康の時代に朝鮮との外交を担い苦労を重ねました。
 
 秀吉の朝鮮出兵の際には、小西行長と組んで加藤清正と先陣争いをします。
さらに日本の各部隊には対馬の通詞(通訳)を割り振り先導させたのでした。
島にとって朝鮮出兵は朝鮮との交易は断絶した上、働き手を戦争にとられ
島民の暮らしは窮乏、塗炭の苦しみを余儀なくされます。       
 
 徳川幕府になってからは、家康から修交を命じられますが、これは難題でした。
義智公は使者を数回派遣しますが、帰国しません。殺されたのでしょう。
それでも諦めずに捕虜の送還や王墓を荒らした犯人を引き渡します。
 
 義智公は島が存続するためには朝鮮との交流は不可欠と覚悟します。
そして国書の偽造や王墓荒らし犯人のデッチアゲなどの「離れ業」で
国交を回復したのです。島民共々、大変な難儀をしました。  
 
 そんな義智公を日朝外交の礎を築いた功労者として顕彰し銅像を建立したのです。
宗義智公顕彰碑建立実行委員会は、公の没後400年に当たることから広く浄財を
募り、中村ふれあい公園に設置。子孫の宗中正氏も出席し謝辞を述べました。
 
 宗氏のルーツは惟宗(これむね)氏で薩摩の島津氏と同族とされています。
対馬には律令制下の役人として赴任、官職は尉(じょう)でした。当時、阿比留氏は
大尉(だいじょう)で惟宗氏より上位でしたが、いつのころか逆転されます。
 
 その後、宗氏に改名し守護代になります。さらに守護になり島主と
地位を固めるのでした。江戸時代には藩主となり10万石格の大名です。
格が付いても、10万石の格式は重要で江戸城の控えの間が大広間詰になります。  
 
 宗氏の本貫は宗像市の田島近郊とされています。そのため峰町佐賀に
本拠を置いた際、宗像から宗像八幡宮を勧請しています。また、厳原町内山に
宗重尚の菩提寺光全寺がありましたが宗像市の宗家菩提寺も光全寺だそうです。
 
 宗氏は鎌倉時代の守護代の頃から対馬を統治した守護大名です。
 
          宗義智公顕彰碑除幕式                            式典で謝辞を述べる宗中正氏
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