あの後、水道管やガス管を治す為に、全国から人が集まってきてくれた。

 

水道が通じるまで、例えばビルなど、沢山トイレがあっても、使ってよいのは1階にあるここだけ、などと決められ、そこには、バケツに入った水とひしゃくが用意されていた。

 

でもって用をたした後は、自分でバケツから水をくんで、流したのだ。 

 

被災地でのトイレは、不自由をきわめたので、通勤してる人などは、なるべく水の出る地域でトイレをすますようにしていた。 

 

しかし、それも、全国から来た人々のおかげで、数ヵ月後には、水が通った。

 

水やガス、さらには電車が復旧すると、親戚宅等に身を寄せていた人達が、戻ってきた。

 

戻っても、もとの暮らしができるわけではない。

 

家の境界線でもめたり、貯金をはたいて自分の店を出したのに失ってしまった人、みな地震保険に入っていなかったから、人生が変わってしまった人も多くいた。

 

 

それでも、阪神エリアは、海も、山もあって、素敵な場所だ。

 

 

先日、西宮北口に行った。

駅前にあった、密集した商店街は跡形も無く、広々とした空間が広がっていた。

 

どんな物にも、限りはある。

きっかけは地震だったけれど、街は、いつかは生まれ変わらないといけなかったのだ。

 

それでも、電車が三宮に入る時に見えていた、あの阪急のクラシックな建物が今は無い、という事が、実はいまだに信じられない。