天鏡閣 | 城郭模型製作工房

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城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

創建時の金閣、つまり義満の北山殿の舎利殿周辺をつくっています。
完成間近です。

金閣は一階北側も全て開口部だったことが埋木の痕跡から推定されていますので、そのように作りなおしました。

さて、天鏡閣です。

舎利殿の北側には、天鏡閣という二階建ての大きな建物がありました。
これは文献にのみその存在が書かれている建物で、遺構などは発見されておらず、幻の建物です。

天鏡閣について書かれている『臥雲日件録抜尤』文安五年 (1448) 八月十九日の記事です。

舎利殿北、有天鏡閣、複道相通、往来者似歩虚、閣北有泉殿、々今則廃牟、閣曾為南禅方丈閣、而去歳回禄為灰燼、可惜、又会所東北山上、有看雪亭、…

書き下してみますと

舎利殿の北、天鏡閣あり、復道(二階建ての廊下)相通ず。往来する者、虚空を歩むに似たり。閣の北に泉殿有り。殿は則ち廃む。閣はすなわち南禅方丈閣と為す。しかるに去歳、回録(火事のこと)灰燼となす。惜しむべし。会所の東北山上に看雪亭あり…

となります。

【その位置】
天鏡閣は舎利殿(金閣)の北にあったことが分かります。
地形的には今松林となっている平坦地があり、このあたりに建物があってもおかしくありません。

以前、この天鏡閣をCG復元する番組が放送されたそうです。その時、この場所が天鏡閣の位置として選ばれています。

ただし、発掘調査ではなんの遺構も出ていません。上の図でA区となっている東西に細長い区域で発掘が行われましたが、中央あたりで南北方向の溝が出ただけでした。
天鏡閣がこの位置にあってもおかしくないということで、電気探査も行われましたが、何かの遺構が埋まっているという結果は出ていません。

位置としては大変魅力的で、情景としても美しいものができると思いましたので、今回もこの位置を天鏡閣の位置として仮定してみました。

【その規模】
教言卿記』には天鏡閣には十五間(ま)=30畳の会所があったとあるようです。先ほどのCGを見てみると、九間に五間の規模で復元されています。禅宗の方丈建築の6部屋構成を想定してあるようで、私もそれを引き継ぎ、九間に五間、柱間は金閣の1・2階と同じ7尺間としました。

ただし、『教言卿記』には奥会所十五間という表現で出てくるようで、奥会所と天鏡閣が同一かよくわかりません。一番はじめに引用した『臥雲日件録抜尤』の最後の一文にも「会所の東北山上に看雪亭あり」とあり、 看雪亭を現在の夕佳亭付近に推定すると、会所はその南西方向にあることになり、実際この場所(上図B区、D区)から柱間8尺の礎石建物跡と廊下の跡が発見されています。これらの建物は建物の軸線が金閣と一致していて、金閣との関連性が強く指摘されています。

あるいはこの礎石が天鏡閣のものでしょうか?

位置、規模ともによく分からないということが現実です。

【細部について】
建物の様式などは、私の感覚で行いました。
室町期の建築らしいものをつくる、というスタンスです。
すなわち
・細い部材
室町期は日本の建築の国風化が完成した時代です。また、建築に対する美的感覚が最も鋭敏な時代でした。
建物を建てるのに図面を引くことはなく、感覚で軒反りを決めていました。室町期の建物には、軒の線を決める墨線が、二本、三本と入っているものがあり、それは大工が目で見ながら微調整した痕跡です。建物の柱や化粧垂木が極めて細くなりました。

・遣り戸の発達
室町期の建築が現在に至る日本建築の基礎を作ったと言われるのは、畳の規格化と建具の規格化です。
特に建具では、いわゆる三本溝の敷居が発生し、舞良戸二枚と明かり障子一枚を入れる形が完成します。


このような室町期の特色を出した外観にするようつとめました。

一階の会所の様式は、大仙院本堂や光浄院客殿を参考にしています。

テレビの復元CGではもう少しいかめしい建物に造形してありましたが、

私は室町の軽さ、清々しさ、柔らかさを前面に出してみたつもりです。

天鏡閣について製作記などもう少し続きます。