金閣が洛中洛外図の中でどのように描かれているか一挙に並べてみます。
洛中洛外図についてはここでは詳しい説明は省きますが、京都の名所を描いた屏風で、16世紀はじめ頃、戦国時代から幕末まで描かれました。
都市景観と風俗を描いているため、美術史にとどまらず、建築史、風俗史、芸能史、文学史などあらゆる分野で重要な史料となっており、さまざまな角度から研究されています。
金閣も必ずと言っていいほど姿を現します。
歴博甲本(町田本)
現存する中で景観年代、制作年代ともに最古のもので天文年間頃のようすです。金閣は雪の景色として描かれています。建物の姿は現在の金閣とほぼ同じです。南からの眺めですが、金閣の東側(右側)に橋か道のようなものが描かれ人が歩いています。池が金閣の後ろ側まで回り込んでいて、池中に突き出した岬のような部分に金閣が建っているように描かれます。
東博模本
模本ではありますが、原図が狩野永徳筆と伝えられる貴重なものです。景観年代が歴博甲本と上杉本の中間に位置するものとして重要視されています。
景観年代は上杉本の少し前と言われます。金雲の表現が固定的な感じがあることが指摘されています。
金閣は上層が金雲から覗いています。三階が金色の表現になっています。屋上の鳳凰を象徴的に大きく描いています。周辺は雪の景色です。
文化庁本
上杉本
上杉家に伝えられたもので狩野永徳筆として大変有名な屏風です。信長が謙信に贈ったもので景観年代は天文年間後半とされます。
金閣は手前に漱清の屋根が見えており南西からの眺め。屋根には雪。三階の壁面のみ金で、3階の高欄、腰組、二階は柱が朱に描かれます。1階、2階、3階高欄の腰組には白壁が見えます。
前回の記事で書きました「真塗」とは黒漆塗りを表す言葉ですが朱漆だったのでしょうか??さすが永徳、卓越した画力です。
ここまでの4作がいわゆる初期洛中洛外図で、戦国時代までの景観を描いています。
慶長12年以降の景観。
景観年代は慶長17年以降。文化庁本と町筋に至るまで一致し、文化庁本の失われた右隻の図様を想像できる重要な屏風です。
金閣の姿は文化庁本と大変似ています。南西からの眺めとも見えますが、漱清が奥にあるようにも見え、南東からの眺めとも取れます。金閣に至る橋が描かれています。
豊臣家滅亡以降の景観かと考えられています。
金閣は二階建てに描かれます。上層のみ金色です。漱清の反対側にも同じような付属建物があります。下階は開放的で奥の景色が透けています。
寛永2年以降の景観。
元和期の狩野派周辺の絵師の筆か。
岡山藩池田家に伝来したもので元和年間初頭の景観。
金閣は三層に描かれます。2階の縁下にも腰組を描くなど、建物の形は正確ではありません。
池田本、京都個人本と同系列で景観年代は寛永以降。
寛永3年の後水尾天皇による二条城行幸を描いた屏風です。これ以降の洛中洛外図屏風には制作時期に関わらず後水尾天皇行幸が描かれるようになります。
個人本
金閣は三層に描かれます。1階から3階まで壁面が黒く表現されます。漱清のみ白木で、屋根は瓦葺きです。金閣東側(手前)に橋が描かれます。
前の個人本と同じ粉本からの制作の屏風です。
17世紀最末期の制作。
金閣は2階建てに描かれますが壁面全体が真っ黒になっています。漱清のみ白木の描写です。
17世紀末頃。
金閣の姿はかなり忠実に描きます。壁面は全体に黒っぽく表現されており、漱清のみ白木で屋根は瓦葺きです。高欄が朱色に描写されます。
洛中洛外図帖(奈良県立美術館)より
洛中洛外図扇面(東京芸大蔵)の金閣。
一階は白木、二階は白木に白壁、3階の高欄は赤黒く、3階の壁面と鳳凰が金色です。
金閣は2階建ての表現、上階の壁面と高欄が金色、下階は白木に白壁で腰板障子が入っています。
以上、22点の金閣を見てきました。
模型では2階の全面と3階の腰組は真っ黒に塗装していましたが、白壁があるようですね。
塗り直しましょう。