この度、お願いして模型製作の資料として、画像データをご提供くださり、その上、このようにブログ上でその一部をご紹介することをご快諾くださりました。
改めて御礼申し上げます。
今後この絵図が岡山城の研究の重要な資料となるのではと思っています。
まず、その年代がハッキリしていること。
「寛保三亥五月改」の記載があります。寛保三年は1743年です。三分を一間とあり、縮尺は約217分の1となります。
1つは元禄13年の「御城内御絵図」(以下元禄絵図とします)
こちらは年代不明となっています。
この度の新出の絵図は元禄絵図から43年後の岡山城の姿を伝えます。
今回の模型は、漠然と江戸中期の姿、ということで製作していました。
それは、元禄絵図をもとにした模型が岡山のシティーミュージアムにあり、また幕末頃の姿は、詳細な復元図があるからです。
その中で、本丸本段御殿の絵図の比較から、江戸中期の姿であろうものを基礎資料として、本段御殿を起こしました。
こちらは年代がはっきりしていません。
そして今回、新たにご紹介した寛保絵図を一目見たときに、増改築が激しい本段御殿の間取りがほぼ同じであることが分かりました。
岡山城の本丸は、御殿のみならず、その他の細々とした建物も移り変わりがあり、姿が一定ではありません。
この絵図の発見で、時期を統一した模型の完成が見込まれます。
ちなみに、T3 70の白図は、寛保絵図の間取りへの増築や撤去が見られ、寛保絵図よりは後の時期を表していると考えています。
さらに他の断片的な絵図と細かい部分を比較すると、いろいろと面白い発見がありましたので、おいおい記事にしていきます。
さて、ツイッターの方では復元図の間違い探しのようなことをしていました。2枚目の方が少し難易度が高いです。解答は最後に。
天守脇の、廊下門に下る階段です。
しかしながら、測量図を起こした地形に本段御殿を建てると、この石段に御殿の建物がかかってしまうのです。
製作でも困ってしまい、手つかずでした。
ところが別の絵図に、大変興味深い描写を見つけました。
現在のような屋外の階段ではなく、地下トンネル状の抜け穴通路だった、という可能性を指摘しておきます。
模型でもそのように作るつもりです。
それでは先ほどの間違い探しの解答(のようなもの)です。