最後は天守の鯱。楊枝の先よりちっちゃい。
二ノ丸は想像にして創造。模型は空白が許されないのです。
資料も単に「家有り」とか「片桐市正屋敷」などとしかありません。家有りって「建物有り」ということなので、どんな建物か、どんな屋敷なのかは皆目不明です。(「家」というのはそこに人の生活がある建物、という意味だそうです)
櫓もどんな櫓がどれくらいあったのか。
豊臣大坂城はとにかく古い城なので、その後の城よりは素朴、しかし空前にして絶後の豪華さ、という相反した内容を形にするのは大変でした。
本丸には櫓はわずか5〜6基、多聞櫓もほとんどありません。二ノ丸には多聞櫓はどのくらいあり、三重櫓はあったのか??など判断が難しかったです。
三重櫓は二ノ丸の四隅に置きました。
生玉口脇の千貫櫓。
玉造口の脇
京橋口の脇
鬼門の隅。
櫓は二重櫓含め、ひとつとして同じ形が無いようにしました。
天守と月見櫓。月見櫓は冬の陣図屏風にある、二重目に高欄が巡る特異な形。
あと馬出し曲輪も今回の模型の大きな特色です。
発掘遺構などから形にしています。
京橋口の馬出し曲輪。ササの丸もしくはサクノ丸と呼ばれていたようです。空堀の中からも塀の跡が見つかり、二重に塀が巡る変わったつくりです。曲輪内には江原与右衛門屋敷。
馬出しとはその名の通り、虎口の守りを固めると同時に、中に溜めた兵力を出して敵の背後にまわったりする攻撃性の高い曲輪で、曲輪内は広く取られますが、豊臣大坂城は中に屋敷があるくらい広い。
生玉口の馬出し曲輪の特色は堀障子が作られたこと。
発掘調査で遺構が出土しました。中には織田有楽屋敷。
玉造口は中に屋敷はありませんが、虎口が3つある、辻馬出しのような形になっています。これも石垣や土橋が発掘されました。
徳川大坂城で青屋口のある北東部分は自然の湿地帯としたのも特色です。徳川大坂城で青屋口の石垣を築く時、鷺島周辺は水が止まらず根石が定まらなくて苦労したという記録があり、こちら側は土塁の上に石垣としています。