豊臣大坂城、枠を取り付けました。
熊本城の時は台自体がない化粧板囲いのみ。これも格調が高いですね。
プラモデルはこのような形のものが多いですので、化粧板の部分をきちんと塗装するだけで台を付けずともしっかりしたものができます。
さて熊本城の御裏五階櫓です。
前回の記事で先走って北野先生の復元図は間違いが多い!とのことを書きましたが、私の誤りもありました。先の記事には追記しております。
具体的には二重目と三重目の逓減は北野先生の復元図の通り0.75間です。お詫びして訂正いたします。すみませんでした。
これからの復元考察記事で前回の記事の修正と補足とさせていただきます。
熊本城に資料申請をし、以下の資料を提供していただきました。
⚫︎御裏五階櫓周辺の石垣平面略図
⚫︎石垣写真
⚫︎御城内御絵図の御裏五階櫓周辺
熊本城の研究員の方も、石垣面の例のほぞ穴は確認しておられたそうです。ただ、御裏五階櫓の建物との関連性までは検討されていないようです。
今回からの私の検討は、もしかすると初めての詳細な考察ではないかと自負しています。
現在はあの部分の石垣は地震で崩落してしまいました。
この土日、豊臣大坂城の製作を終えた後、御裏五階櫓の復元図面の作成に深夜まで没頭してしまいました。
北面と西面がほぼ完成。
西面、問題の多聞櫓との接続部分は予想だにしていなかった結果が….
これはきちんと研究されれば同じ結論に至るはずなので、別に隠すことではありませんが、モザイク部分は後日公開します。
復元の手順。
今回はイラストレーター上で作業を進めました。
古写真や図面などを自由に拡大、縮小でき、上からなぞったりできる上に、細かい数値を指定してパーツを配置していけるので、ひょっとするとスムーズにいくかも?と思いながら。建物の図面をイラストレーターで作成するのは初めての経験です。
まず、国会図書館から入手した櫓の平面図と、発掘調査結果を同じスケールに合わせ合成しました。5メートルのグリッドが入っていますので、50mmに調整しました。
石垣平面と発掘礎石を書き起こしました。作業は100分の1で行いました。柱間6尺5寸(1970mm→19.7mm)のグリッドを作成、重ねてみると(当然ながら)ピッタリと合いました。
次に御城内絵図の柱を書き起こしたものを柱間6尺5寸に調整し、重ねてみました。ご覧の通り驚くべき精度で重なりました。
柱の推定位置を確定しました。
熊本城の下見板には一間の四等分間隔に押縁が入っているので、理論値4.925mm間隔で押縁をコピペしていくと、写真とピッタリ合いました。
同じように屋根瓦も丸瓦の直径5寸(1.5mm)、間隔4寸5分(≒1.4mm)で一斉にコピーしていくとピッタリ合いました。
その後、最初に作成した推定平面図に合わせながら、写真の斜め補正を考えつつ、各階の重なりを確定しました。
その結果、様々なことが分かりました。
◆最上階は2間半四方、二重目は4間四方である。
北野先生の復元図では、最上階は3間四方、二重目は4間半四方となっています。私の作業からはそれぞれ半間(3尺2寸5分)ずつ狭い数値が出ました。二重目4間四方は一重目の身舎の規模そのままであり、構造的にも至極合理的です。
確かに最上階3間四方は宇土櫓の規模なので、大きすぎます。
◆一重目の屋根の勾配は60パーセント、二重目は50パーセント、三重目は55パーセントである。
これは一重目の入母屋破風を書き起こした角度から、一重目の屋根勾配は60パーセントであることがまず算出でき、二重目は古写真の勾配書き起こしから推定、三重目は棟高推定値からの算出です。いずれもキリのいい数字が出ました。飯田丸五階櫓などの数値と比較しても、標準的な数値です。
このあと、このような写真の書き起こしから、実際の遺構との様々な符号、特に階段室の部分では鳥肌が立つような合致が連続し、パズルのピースが次々にはまっていくような気持ち良さを体験しました。
詳細、続く。
以下、北野先生の復元図との比較です。上が北野先生、下が私。(私の図面は懸魚はじめ、まだ細部未完成です)