来年の事を言えば鬼が笑うといいますが、実はもう来年いっぱいの作品が埋まってしまいました。その時々で製作記事にしていきますが、つい最近も急ぎの問い合わせをいただき、これもどうなるか未定とはいえ、実現のために奔走しています。恐らく最大スケールのものになりそうで、部品を外注せねばならない雰囲気です。あとは予算と製作期間の折り合いで、春までには詳細をお知らせできるかと思います。実現の暁には広く公開されますのでお楽しみに…。
オンラインショップが開店休業状態なので、在庫も並べたいのです。時間がほしい…
さて、大坂夏の陣、落城時の大坂城の様子を。
前回の記事で、五月七日の最終決戦開戦時の様子を書きました。前日六日に、すでに後藤又兵衛基次、木村重成らが討死しています。
七日の正午頃になし崩し的に始まった最終決戦も、三時頃には豊臣方がほぼ壊滅、真田幸村、大谷吉治、石川康勝らが戦死します。
豊臣方は潰滅状態となり、城に向かって敗走を始めます。
秀頼は出馬して討死にしようとしますが、戦場から戻った速水守久は「むしろ退いて本丸を守るべき、そして力尽きたのちに自害しても遅くはない」と押しとどめ、秀頼は御座の間に引き上げます。
この頃、徳川方に内通していた台所頭の大角与左衛門が三の丸の台所に三方を積み上げて火を放ちます。
燃え上がる炎をみて勢いづいた徳川方は三の丸に突入、松平忠直隊が大野治長邸に放火したため、二の丸も燃え始めました。
これを見てもはや落城と、城中では将士が自害し始めます。
太閤以来、その直属の親衛隊の黄母衣衆の一人、郡良列は、秀頼の旗と馬印を千畳敷に置き、息子とともに腹を切りました。堀田正高、野々村安吉は本丸に入ろうとしますが、炎に行く手を阻まれ、本丸前の石壁上に座して自害。
大野治房、治胤、伊東長次、仙石秀範囲らは城から脱出しそれぞれ落ち延びていきました。
秀頼は負けを覚悟して奥に入ると、淀殿は事の成り行きが理解できず、立ち尽くしていました。秀頼の命は助けるとの確約があるという情報があり、大野治長は家康に使者を走らせます。
その間に秀頼は天守に焼け種を込めさせ、自害の準備が整うと、母に向かって「一所に天守へ上り給へ」と立ち上がります。淀殿は袖にすがり、「何ぞ慌しう腹を召さんと急がせ給うぞや」と引き止めますが「もはや命運きわまりたり」と袖を引き払い天守に上がりました。
その後速水が来て「味方の様子からもう少し待つように」と進言し、一行は山里の東の櫓(糒櫓、朱三櫓)に逃れました。
大野治長は最後の助命嘆願をさせるため、秀頼の妻である千姫(=秀忠の娘)に侍女と使者、警護の者を付けて城から脱出させます。『落穂集』には女中二十人ばかりに取り囲まれていたと書かれているので、侍女の人数は多かったかもしれません。
秀頼は「我太閤の子に生まれ、天運きわまり、今朝まで十万の大将たりしが、今残るところ二十八人なり」と言って、一人一人に声をかけ、自害の手はずを指示しました。その後小姓の膝でしばらく大いびきをかいて寝たあと、豊国社の方へ向いて伏し拝み、速水に目配せをして介錯させました。
秀頼の自害は翌8日と言われますが、7日説もあります。結果としてこの櫓には中から火がかけられ、焼け跡からは秀頼の遺骸が見つからなかった上、8日まで生きている姿を見た者が徳川方には一人もいないため、生きているように見せかけて、実際には7日にすでに自害したとも考えられそうです。
秀頼とともに自害したのは、淀殿、大野治長、大野治徳、速水甲斐守守久、速水出来丸、毛利勝永、毛利長門、高橋半三郎、高橋十三郎、津川親行、竹田永翁、堀対馬守、武田左吉、森島長意、伊藤武蔵守、土肥勝三郎、真田大助、萩野道喜入道(氏家行広)、寺尾勝右衛門、和期の局、大蔵卿の局、宮内卿の局、右京大夫局、玉の局、饗庭局、など総勢29名(33名とも)。細川忠興の書状には殉死者の中に、大坂の陣の発端となる方広寺の銘の作者である清韓文英の名前があります。清韓老師は大坂城を脱出し、元和7年に亡くなったという資料もあるようですが、大坂の陣の原因を作ったことに責任を感じ、大坂の陣にあたっては城内にいたものだと思われます。
大坂の陣の後、執拗なまでの残党狩りが行われ、豊臣家の血筋も完全に根絶やしにされました。
大坂城は全域が埋め殺しにされ、豊臣期の姿は地下深くにねむり、現在に至ります。
次回からアーマーモデリング12月号の誌面に掲載できなかった製作記事をあげていきます。
【参考、引用資料】
二木謙一『大坂の陣 証言・史上最大の攻防戦』、笠谷和比古・黒田慶一『豊臣大坂城』、福田千鶴『豊臣秀頼』、桜井成弘『豊臣秀吉の居城 大阪城編』など