白黒処理してます。
連絡をいただいたのが7月。お電話を下さったのはなんと、ジオラマ界の巨匠、金子辰也先生!私のギャラリーにある、とある作品に注目して下さり、それを掲載できないかとのことでした。ところが手元に無く、所蔵先からの貸し出しも検討しましたが、新しく作ることにしました。ちなみその作品は次回の「戦国ダイオラマ絵巻」に掲載される予定で、現在製作中です。連続掲載という光栄を下さり、ただただ感謝。
ところが、大坂の陣が起こる前年の慶長十八年の春に、この山里を切り拓いて大規模な豊国社が造営されます。
連絡をいただいたのが7月。お電話を下さったのはなんと、ジオラマ界の巨匠、金子辰也先生!私のギャラリーにある、とある作品に注目して下さり、それを掲載できないかとのことでした。ところが手元に無く、所蔵先からの貸し出しも検討しましたが、新しく作ることにしました。ちなみその作品は次回の「戦国ダイオラマ絵巻」に掲載される予定で、現在製作中です。連続掲載という光栄を下さり、ただただ感謝。
その後紆余曲折があり、まずは豊臣大坂城ということになりました。当初は通常のように復元ジオラマにするつもりでしたが、大河ドラマもクライマックスの大坂の陣に突入している頃だと思い、長年思い描くだけだった夏の陣の落城の場面をこの際つくってみようと思い立ちました。
慶長二十年五月七日の午後5時前後の大坂城を再現することにしました。天守に火がかかる直前の天守周辺です。
何回かに分けて、その時の大坂城の様子を文献から掘り起こしてみたいと思います。
大坂城落城の時、天守下の山里に壮麗な豊国社があったことは案外知られていません。
ところが、大坂の陣が起こる前年の慶長十八年の春に、この山里を切り拓いて大規模な豊国社が造営されます。
神官の神龍院梵舜がこの山里の豊国社の遷宮の様子を『梵舜日記』に書き残しており、「仮殿より本社まで間二十五間あり」とあります。実際、現在の大阪城の山里からは、長さ二十間ほどの参道のあとが発見されたそうです。
それでは一体どのような社殿が建っていたのでしょうか。
これに関しては全く資料が無く、冬の陣の最中、秀吉の命日である12月18日に、「山里ノ豊国廟」へ秀頼が参詣するのを狙って、城の北側にある備前島より大砲を打ち込ませたところ、天守の二重目に命中して柱が折れたとあります。(『武徳編年集成』)
このことから、城外からも望めた規模であり、かつ天守のすぐそばにあったことが分かるのみで、具体的な建築様式までは分かりません。
そこで、本家本元の京都の豊国社に目を向けてみます。
この豊国社は、徳川幕府によって廃絶となりましたので屏風絵と文献からその様式を推測します。
『義演准后日記』は、この阿弥陀ヶ峰のふもとの豊国社について、「八棟造り」「北野社のごとし」と記しています。
城内の豊国社も、同じような様式であったと推定しました。
ここで参考にしたのが、仙台の大崎八幡宮です。
ちなみにこの「石の間造り」は、のちに徳川家の霊廟建築に使われ、「権現造り」と呼ばれるようになります。
秀吉を祀る建物に使われた様式をなぜ徳川幕府が使ったのか疑問に感じられる方もあるかもしれませんが、私なりの推測を。
徳川幕府によって、大坂城は豊臣時代の痕跡を残すことなく、徹底的に新しく作られますが、山里、西の丸といった曲輪をはじめ、桜門や千貫櫓といった建物に、豊臣期と同じ名称のものが少なくありません。豊臣色を消すためには、名前も変えてしまって存在を残さないのが自然な気がしますが、徳川幕府は、同じものを、はるかに凌ぐ規模で作り替えることによって力を誇示している気がします。霊廟建築においても、秀吉の廟に使われた様式をあえて使い、それをもっと豪華に、より壮麗にすることで豊臣家を凌駕する権威があることを示すしたたかな戦略があるような気がします。(「権現造り」の上野東照宮)
それにしても、秀吉が趣向を凝らした山里曲輪を大幅に削ってまで造られたこの豊国社には、豊臣家に対する不穏な風向きの中で、行く末の安穏を願う豊臣家の人々の心を見るようです。
次回は朱三櫓(糒蔵)と天守についてです。