豊臣期大坂城を描いたものでは現存最古とされるのが「大坂城図屏風」です。
各階の外壁が金の紋章で飾られているのが大きな特徴です。
ただし、入母屋を交互に重ねる形は、洛中洛外図屏風に描かれる二条城や伏見城にも広く共通しますし、先の徳川大坂城ですら、このように入母屋を交互に重ねたかたちです。この描き方は「城」を表す一つの様式、約束事であった可能性もあり、外壁の紋章も「豊臣家」や「派手さ」「豪華さ」を示す単なる記号かもしれません。
京大坂図屏風もほぼ同じかたち。
この先、独自復元の天守を作る予定もあるので、少しそちらの考察にも入っていますが、まず断定してよさそうなことは、大入母屋は東西栄であったということです。本丸図の天守台の寸法からも言えることですし、これは文献からも読み取れます。
すなわち、夏の陣の5月7日、北から城に進んだ京極忠高の覚書には、天守から煙がひとすじ高く上がったかと思うと、両方の破風から火炎が出て燃え上がったとあるそうです。その様子を合成してみました。↓
炎の大きな通り道になるであろう破風は大入母屋が考えられます。北から見て両側から炎が噴き出したのですから、大入母屋は東西栄だったといえそうです。しかも炎が一気に吹き出すには、破風内の壁は塗籠ではなく木連格子などの板壁であったのではないかという推測も成り立ちます。
天守の姿の詳細は次への課題として残します。