完成しました豊臣大阪城本丸復元模型の細部写真です。
まずは天守周辺。
今回、天守は製作時にも書いたとおり、平面の長短に素直に従い、東西栄の姿です。塗装は夏の陣図屏風を参考に、宮上案のように鼠漆喰に黒下見板、金金具打ちの姿、また瓦は、軒瓦、鬼瓦、鯱などを金箔瓦として表現しています。
童友社の城郭コレクションの大阪城を使用していますが、現在の大阪城天守閣は、夏の陣図屏風をもとに外観が設計されていますので、色を変えるだけで夏の陣図屏風に近い姿になるのはある意味当然です。
今一度全景を真上から俯瞰して縄張りのおさらいを。
天守と奥御殿のある詰の丸を中心に、中ノ段帯曲輪、下ノ段帯曲輪が雛壇状に取り囲む一二三(ひふみ)段構造で、北側に山里曲輪、もう一段低いところに芦田曲輪を設け、搦手の勢溜まりとしています。本丸大手の桜門から表御殿のある曲輪は、その名のとおり表向きの空間。そこから詰ノ丸へは細くくびれた土橋を通らねばならい作りで、土橋東の井戸曲輪は空堀のような働きもしています。山里から隠し小門を通り、下ノ段帯曲輪から井戸曲輪、そこから坂を上って城外へのルートは緊急脱出路。実際に、夏の陣に際して、千姫脱出はこのルートが使われています。
ちなみに、西側(画像下方向)の下ノ段帯曲輪は、そのままたどっていくと、米蔵を囲み桜門の土橋に至る空堀とつながっています。防御のための空堀内から城内へ直結するというのは無防備としか言い様がなく、おそらく、一二三段構造にしたのは単に石垣築造技術から高石垣ができなかったのであり、下の段帯曲輪は堀と同じような扱いだったと思われます。ですから、山里の脇の舟入りというのも、実際にはあやしい気がします。
各建物の名称を場所ごとに。
建物の名称は中井家「本丸図」および、宮上茂隆氏考証の図面によります。