豊臣大坂城の天守についてあれこれ考えていたら松本城にたどり着いたのです。
松本城といえば、現存最古の五層天守で国宝ですが、この天守を作ったのが、石川数正、康長親子です。石川数正は、家康の側近でしたが、突如出奔して秀吉のもとに入ります。そして松本城に封じられ、松本城を近世城郭に仕立てました。まさに豊臣政権下の五層天守です。
昭和20年代末からの大修理の結果、大天守の部材から数多くの痕跡が発見され、当初はかなりきらびやかな姿に構想されていたことが分かりました。その復元図がこちら。
もう一つ手元に図面がありますが、少し違います。
今回は宮上氏の図面の姿で作ります。
四層目から作り始め。
最上階。最上階の入母屋の屋根は、スクラップになっていましたフジミの大姫路城のいずれかの小天守の屋根にすげ替えました。
比翼千鳥破風の作成。
二階西側の切妻出窓。
豊臣大坂城と松本城、意外と共通点あるのでは、と思っています。
今回立体化してみて、豊臣大坂城も、破風構成が全ての方角で違うという可能性もあるのでは、と思いました。
一応天守完成。
このド派手天守、実際に施工されたのかどうかは不明だそうです。少なくとも、ほぞ穴までは空けているわけですから、計画は間違いなくあったのだと思います。
辰巳付櫓と月見櫓は、寛永期の増築というのが定説ですが、石垣は全て同時期に作られているようです。寛永期の増築説の根拠となっている『信府統記』には単に天守の修理、としか書いてないらしく、増築とまでは断定できないようです。いずれにしても、四棟が当初からの計画だったようだ、とのことですので、全て建物は作りました。