しかしそれ以上に、大震災と息子の命の記憶がひとくくりになって、毎年この日が来ると何とも言えない気持ちになります。
何度か書いたように思いますが、震災時はちょうど妊娠中で、神保町近くで働いていました。
電車が止まってしまったため、皆で会社に泊まり、翌朝動き出した電車で帰宅。
大変なことになったとは思いましたが、電車が動いている以上は月曜日からまた会社に行くのだと思っていました(地震は金曜日におきました)。
ところが、電車の減便や混雑で都心まで出るのは無理になり、会社を休むことに。
そしてそこで、「誕生日に赤ちゃん見れますね」なんて看護師さんに言われながら先生に見てもらった直後、「前回からまったく育ってない。今から僕がいた大学病院の先生に紹介状を書くから、明日ならちょうど先生がいるから必ず行って」と告げられて、絶望することになります。
さらに翌日、大学病院で、「こうなるともうやれることはないんだけど、どうしたい?」と教授先生に開口一番に問われ、「助かる可能性があるなら何でもしたい」と返答した結果、「じゃあ今から入院して」と、着の身着の侭、怒涛の入院生活が始まりました。
ところが、電車の減便や混雑で都心まで出るのは無理になり、会社を休むことに。
仕方がないことなのですが、数日休むうちに申し訳なさが募り、
「じゃあ今のうちに定期検診にいっておこう。そうすれば会社に行けるようになった時に、休み取らなくていいし」
と思いついて、予定よりも半月ほど早く産婦人科にいったのが、偶然自分の誕生日でした。
「じゃあ今のうちに定期検診にいっておこう。そうすれば会社に行けるようになった時に、休み取らなくていいし」
と思いついて、予定よりも半月ほど早く産婦人科にいったのが、偶然自分の誕生日でした。
そしてそこで、「誕生日に赤ちゃん見れますね」なんて看護師さんに言われながら先生に見てもらった直後、「前回からまったく育ってない。今から僕がいた大学病院の先生に紹介状を書くから、明日ならちょうど先生がいるから必ず行って」と告げられて、絶望することになります。
さらに翌日、大学病院で、「こうなるともうやれることはないんだけど、どうしたい?」と教授先生に開口一番に問われ、「助かる可能性があるなら何でもしたい」と返答した結果、「じゃあ今から入院して」と、着の身着の侭、怒涛の入院生活が始まりました。
そこから3週間で息子は333gで生まれることになります。
あの時、地震が起きなければ次の定期検診までの半月の間に、息子の命は途切れていたかもしれません。
そして被災して大変な中、私と息子を心配してくれた祖父や叔父は、今はもうこの世にはいません。
命に思いを馳せる今日です。