1950年10月、マッカーシー上院議員の赤狩り旋風の最中。
セシル・B・デミル監督(「十戒」(1956)等)をリーダーとする一派がマッカーシーにゴマをすろうとしてか、全組合員に国家に対する忠誠の誓いの署名を強制しようと試みたことがあった。
監督組合の会長だったジョセフ・L・マンキーウイッツ監督(「イヴの総て」(1956)等)が反対の意思を示すと、たちまち、「マンキーウイッツが"アカ"とは知らなかった」と言う記事がマスコミに氾濫した。根も葉もない中傷記事だが、その当時、デマは裏づけのある事実同然に信じ込まれた。事態は深刻になり、ついには組合員全員が召集され総会が開かれた。
以下はマンキーウイッツ監督の手記。(一部略)
その集会は4時間に及ぶ陰惨なものだった。議事が進行している間、私は(そして、居並ぶ会員の面々の中にも私同様、そう思っていた。映画作家が少なからずいたのを知っている)、ジョン・フォードが何を考えているか、知りたくて仕方なかった。フォードは組合の最長老であり、人々は彼によって影響を受けて当然だった。しかし、いつもの野球帽とスニーカーというくだけた格好で出席していたフォードは、通路よりの席に座ったきりで、押し黙ったままだった。
デミルが長々と弁舌を振るったあと、シラケた間ができた。
と、フォードが手を挙げた。指名されて立ち上がったフォードはまずこう言った。
"My name is John Ford.and I make Westerns"
フォードはデミルの作品を讃め、映画監督としてのデミルを賞賛した。
「ここにご列席の方々で、アメリカ大衆の求めるものを最もよく知っていると言う点ではセシル・B・デミル氏にかなうものはおるまい。デミル氏は確かにいかにしてそれらを大衆に与えるかよくご存知だ。」
そこまで述べて、フォードはホールの反対側に座っていたデミルを冷たくにらみすえ、後を続けた。「しかし、私はあんたが嫌いだよ。C・B。そして、あんたが今夜ここで長ったらしい演説をぶったことも好かん」
「私はジョー・マンキーウイッツに信任の一票を入れることを提案する。それが済んだら、 みんな家に帰って下らないことなんか忘れて寝てしまおうじゃないか。」

実際の議事は4人の棄権者を除き投票が行われ、
マンキーウイッツ会長以外のデミルを含む委員全員が辞任する結果となったようだ。僕はこのエピソードをレンタルビデオ店の店長時代のタウン誌広告、去年の卒業した大学のアメリカンフットボール部会報誌への広告にも使わさせてもらった。

僕も野球帽にスニーカー姿で言いたい。
"My name is John Ford. and I make Westerns"って。
もちろん、名前部分は変えるけど。かっこいいよね。
I make 以下は僕だったらどう言うかな。

今回はVTRを観ながら細部は本で確認しました。ので、参考文献
「インタビュー ジョン・フォード 全生涯・全作品」ピーター・ボグダノビッチ箸 九藝出版刊 (表紙のイラストはもちろん巨匠和田誠)
「LIFE STORY ジョン・フォード 孤高のフロンティア魂」メディアファクトリー刊

今までは読み易いエッセイばかり書いていましたが、
ここ3回は読み手をのことを想定せず、
書きたいことを書きました。
ここまで読んでくれた方々、
ありがとうございました。

 

2010/5/25(火) 午後 0:44