1年
気がつけば、もう2014年も数日で終わりというところまで来た。
激動、というのがふさわしいかどうかは疑問の余地ありであるが、
自分にとってはひとつの転機とも言える、変化の年であった。
変化しながらも、高校生から20代前半にかけてくらいの、ちょっと無茶苦茶ではないかと今は思えるような激しさは感じなかった。あの頃はただただ突っ走ることが人生だと思っていたような節があるので。(笑)
熟考しながらも、前へ進むこと。足取りを感じながら、淡々と。そんなことを少しだけ、覚えたような気がした。(それでも猪突猛進やおっちょこちょいや慌てん坊やぎりぎり滑り込みの元来の癖は、まだ抜けていない部分があることも、反省をもって自覚している。。)
ちょうど今から1年前くらいに、今通っている英会話に通い始めた。
早いもので、もう1年が経とうとしている。
学べば学ぶ程、学ぶべきことは増えていくのだな、ということを、1年やってみて実感したのであった。学びは、終わらない。
1年やってこんなもんかい、、と、正直自分の努力不足を呪いつつ、思うところもあるのだが、何よりの収穫は、英語を話すことに対する不要な恐れが減ったことだと思う。多分、1年前は、英語を話すということに対する抵抗、間違えることに対しての抵抗がもっとあったような気もする。
と、同時に、話す人の持つ文化的バックグラウンド、出身国、またパーソナリティによって、話をする自分も影響を受けるような気がした。
つまり、思ったことは、日本語であっても英語であっても、コミュニケーションが持つ面白さと難しさは、きっとあまり変わらない、ということだ。
日本人でも、言葉数が多い人や少ない人、早口な人やゆっくり話す人、ロジカルな話し方の人や、感情のこもった話し方の人など、様々な人がいるのと同じで、英語であっても、他の言語であっても、国籍や出身地域が様々に異なる人たちであっても、それは変わらないということだと思う。人とコミュニケーションをとるということ、話をするということは、いつも、声色、早さ、選ぶことば、語気、表情、その人の気分等の様々な要素と、話す人の持つバックグラウンド、話をする場所等の条件が合わさったところでの、産物なのだと思う。コミュニケーション力というよく聞かれる言葉は、ただ、その言語の語彙の知識が多いだとか、正しい文法であるとか、そのような、ある程度計測可能な要素だけではないのではないかと思う。もちろん、新しい言語を学ぶ際には、基礎的な語彙や文の構造を知ることは必要なことなのであると思うけれども、コミュニケーション全体ということを考えたときには、それだけの要素では無い。そして、言語は、間違いなくコミュニケーションに関わることなので、ただただ、教科書を棒読みする、ということが、それを習得するということ、ではないなあ、と思ったのであった。(文章を読んだり書いたりするということに関しては、話したり聞いたりするということとはまた別だと思うけれど。)
コミュニケーションの持つ魅力は、まさにそこにあるのではないか、と思う。
様々な要素が合わさった、常に異なる「ライブ」で、
一体どんな会話が生まれるのか。作り出せるのか。
沢山の人と、色々な話をして、場数を踏んで、日本語であっても、英語であっても、フランス語であっても、はたまた他の言語であっても、
言葉を豊かに、会話を豊かに、生み出せるようになりたいなあ、と、
そんなことを思う。
それから、色々な国や地域出身の人と話をすると、やはり、その人の文化的バックグラウンドが、気になるものだ。
自分の好奇心の、際限の無さも、いかがなものかと思うが、
沢山の場所に行ってみたいなあ、と、強く思う。
こんなにもテンションが高いって、どういうことだろう、とか、
それこそ、その人のパーソナリティも絡んでくるのだと思うけれど、
でも、ざっくりと日本人の特徴というのも、やっぱりあるような気もする。
割と静かで、ルールに従順で、礼儀正しくて、スキンシップが少ない、とか。
また、道が逸れてきてしまったけれど、
そんなわけで、沢山の国を訪れ、沢山の人と話がしたい。
一周回って何ともあっけらかんとした、単純明快な結論に来たような感じがした。
この願いを叶えるためにも、
引き続き、来年も、語学を頑張ろうと思います。
そして、アフリカに向けて、益々準備を固めていかなければな、と思います。
激動、というのがふさわしいかどうかは疑問の余地ありであるが、
自分にとってはひとつの転機とも言える、変化の年であった。
変化しながらも、高校生から20代前半にかけてくらいの、ちょっと無茶苦茶ではないかと今は思えるような激しさは感じなかった。あの頃はただただ突っ走ることが人生だと思っていたような節があるので。(笑)
熟考しながらも、前へ進むこと。足取りを感じながら、淡々と。そんなことを少しだけ、覚えたような気がした。(それでも猪突猛進やおっちょこちょいや慌てん坊やぎりぎり滑り込みの元来の癖は、まだ抜けていない部分があることも、反省をもって自覚している。。)
ちょうど今から1年前くらいに、今通っている英会話に通い始めた。
早いもので、もう1年が経とうとしている。
学べば学ぶ程、学ぶべきことは増えていくのだな、ということを、1年やってみて実感したのであった。学びは、終わらない。
1年やってこんなもんかい、、と、正直自分の努力不足を呪いつつ、思うところもあるのだが、何よりの収穫は、英語を話すことに対する不要な恐れが減ったことだと思う。多分、1年前は、英語を話すということに対する抵抗、間違えることに対しての抵抗がもっとあったような気もする。
と、同時に、話す人の持つ文化的バックグラウンド、出身国、またパーソナリティによって、話をする自分も影響を受けるような気がした。
つまり、思ったことは、日本語であっても英語であっても、コミュニケーションが持つ面白さと難しさは、きっとあまり変わらない、ということだ。
日本人でも、言葉数が多い人や少ない人、早口な人やゆっくり話す人、ロジカルな話し方の人や、感情のこもった話し方の人など、様々な人がいるのと同じで、英語であっても、他の言語であっても、国籍や出身地域が様々に異なる人たちであっても、それは変わらないということだと思う。人とコミュニケーションをとるということ、話をするということは、いつも、声色、早さ、選ぶことば、語気、表情、その人の気分等の様々な要素と、話す人の持つバックグラウンド、話をする場所等の条件が合わさったところでの、産物なのだと思う。コミュニケーション力というよく聞かれる言葉は、ただ、その言語の語彙の知識が多いだとか、正しい文法であるとか、そのような、ある程度計測可能な要素だけではないのではないかと思う。もちろん、新しい言語を学ぶ際には、基礎的な語彙や文の構造を知ることは必要なことなのであると思うけれども、コミュニケーション全体ということを考えたときには、それだけの要素では無い。そして、言語は、間違いなくコミュニケーションに関わることなので、ただただ、教科書を棒読みする、ということが、それを習得するということ、ではないなあ、と思ったのであった。(文章を読んだり書いたりするということに関しては、話したり聞いたりするということとはまた別だと思うけれど。)
コミュニケーションの持つ魅力は、まさにそこにあるのではないか、と思う。
様々な要素が合わさった、常に異なる「ライブ」で、
一体どんな会話が生まれるのか。作り出せるのか。
沢山の人と、色々な話をして、場数を踏んで、日本語であっても、英語であっても、フランス語であっても、はたまた他の言語であっても、
言葉を豊かに、会話を豊かに、生み出せるようになりたいなあ、と、
そんなことを思う。
それから、色々な国や地域出身の人と話をすると、やはり、その人の文化的バックグラウンドが、気になるものだ。
自分の好奇心の、際限の無さも、いかがなものかと思うが、
沢山の場所に行ってみたいなあ、と、強く思う。
こんなにもテンションが高いって、どういうことだろう、とか、
それこそ、その人のパーソナリティも絡んでくるのだと思うけれど、
でも、ざっくりと日本人の特徴というのも、やっぱりあるような気もする。
割と静かで、ルールに従順で、礼儀正しくて、スキンシップが少ない、とか。
また、道が逸れてきてしまったけれど、
そんなわけで、沢山の国を訪れ、沢山の人と話がしたい。
一周回って何ともあっけらかんとした、単純明快な結論に来たような感じがした。
この願いを叶えるためにも、
引き続き、来年も、語学を頑張ろうと思います。
そして、アフリカに向けて、益々準備を固めていかなければな、と思います。
フロンティア
生きていることは、いつも最前線を生きていることなのだと思う。
「未知を楽しんで」
これは友人が私に贈ってくれたことば。
そう、生きていることは、常に未知の世界を歩いて行く、ということなのだと思う。
恐れが無い人なんていないと思う。けれど、未知の最前線を楽しむことって、何て素敵でエキサイティングなんだろう、と思う。
肌の色が何色でも、どんな言葉を話していても、どこに住んでいても、どんな職業に就いていても、異性が好きでも同性が好きでも、結婚しててもしていなくても、子どもがいてもいなくても、家族やいてもいなくても、何のセクシュアリティを自認していても、どの宗教を信じていても、または信じていなくても、
その人がその人らしく、誇りを持って生きられる。
そんな世界のフロンティアを、私は見てみたいんだ。
「未知を楽しんで」
これは友人が私に贈ってくれたことば。
そう、生きていることは、常に未知の世界を歩いて行く、ということなのだと思う。
恐れが無い人なんていないと思う。けれど、未知の最前線を楽しむことって、何て素敵でエキサイティングなんだろう、と思う。
肌の色が何色でも、どんな言葉を話していても、どこに住んでいても、どんな職業に就いていても、異性が好きでも同性が好きでも、結婚しててもしていなくても、子どもがいてもいなくても、家族やいてもいなくても、何のセクシュアリティを自認していても、どの宗教を信じていても、または信じていなくても、
その人がその人らしく、誇りを持って生きられる。
そんな世界のフロンティアを、私は見てみたいんだ。
夢想。
私は自分のことを、夢想家だと思う。
夢見ること、わくわくドキドキする気持ち。
たとえ、夢が一瞬のものであったとしても、実現しなかったとしても、
大きくても小さくても、夢を描いてわくわくしたりドキドキしている時間が無いと、
息苦しい。
きっと私は、そうしないと生きていけない人なんだと思う。
空想してはわくわくドキドキすることが、小さい頃から好きであった。
絵を描くこと、見ること。本やファンタジー、映画。そして旅。
すっかり大人になった今であっても、ほとんど変わっていない自分。
実現するかどうかは、別としても、
少なくとも、私は、夢を描き続けて生きていきたいな、と思う。
苦しみにも困難にも、これからも沢山直面するだろうけれど、
でも、心の中にいつも何かしらの夢を抱いて生きて行きたい。
そんな風に思っている。
夢見ること、わくわくドキドキする気持ち。
たとえ、夢が一瞬のものであったとしても、実現しなかったとしても、
大きくても小さくても、夢を描いてわくわくしたりドキドキしている時間が無いと、
息苦しい。
きっと私は、そうしないと生きていけない人なんだと思う。
空想してはわくわくドキドキすることが、小さい頃から好きであった。
絵を描くこと、見ること。本やファンタジー、映画。そして旅。
すっかり大人になった今であっても、ほとんど変わっていない自分。
実現するかどうかは、別としても、
少なくとも、私は、夢を描き続けて生きていきたいな、と思う。
苦しみにも困難にも、これからも沢山直面するだろうけれど、
でも、心の中にいつも何かしらの夢を抱いて生きて行きたい。
そんな風に思っている。