幸福の幻想
幸福の幻想/
家族は私が守る。
朝は四時半に起床。
五時に家を出て六時から仕事を開始する。夜は遅く、日ごとに量を増す仕事を少しでも減らすために終電ぎりぎりまで粘る。家に着いたら食事をして即就寝。
いままではこのように、鬼のようなスケジュールではなかった。
今年の初め、どこかの国で起こった金融危機の煽りをもろに受けた勤め先は倒産寸前に追い込まれた。逆に、ばったばったと他社が倒産していく中でよく持ちこたえたというべきだろう。
だが、提携していた、または取引先であった会社が倒産し、私の会社も食い扶持に困ることとなった。会社を存続させるためには、労働と報酬が見合わないような”おいしくない仕事”を多くこなしていくしかない。
コスト削減。人員に割り振られていた予算は大幅にカットされ、リストラされる者や、やっていけない、と自発的に去る者が続出した。もうオフィスには以前のような活気は無く、首を括るのを秒読みしている社長と、疲れきった残った者たちの牢獄のようだ。
家族のためにも職を失うわけにはいかない。私を会社に縛り付けたのはこの想いだけであった。優しい妻は私がどんなに残業で遅くなろうとも、起きていてくれ、しっかりと夕飯を振舞ってくれる。子供はやっと言葉が上手に喋れるようになったばかり。私より妻に甘えているが、私とお話がしたい、と、夜遅くまで起きていることがしばしばあるそうだ。――失いたくない。
いつものように残業に見切りをつけ、会社から駅まで走り電車に駆け込む。なんだか今日は疲れた。日ごろの疲れも溜まっているのか?
私は頭痛と強烈な眠気に襲われ、抗うことなく瞼を閉じた。
朝四時四十五分。しまった、寝坊した。
十五分ほどの寝坊が家族の生活を変えてしまう。私は必死になって身支度を開始する。
いつもより素早く、そして雑に身支度を終え、壁の時計に目を向けると時計の針は四時四十五分を指していた。疑問を抱き、腕時計を見てみるが同じだった。
間に合ったな。ホッと胸を撫で下ろし、コーヒーでも飲んで一息つこう、とキッチンに向かったとき妻が起きてきた。子供も一緒だ。今日は随分と早起きだ。
コーヒーは妻が淹れてくれた。子供は久しぶりに見る私に、眠気を吹き飛ばして抱っこを要求してくる。たった十五分とはいえ、久しぶりに過ごす家族団欒の時間。私が身を粉にして守り、忘れそうになっていた家族との大切な時間。これからも守ろう。そう固く、再び心に誓い、時計に目を向ける。
時計の針は四時四十五分を指していた。
おかしい。そう思い、電話で時報を確認してみる。抑揚のない人工の声が四十五分ちょうどをお知らせした。
疑問を胸に残しながらも時間の確認が取れた私は、まだこの幸せな団欒が続くのだと喜び、家族に悟られないように目を涙で滲ませた。今はこの時間を噛み締めよう。
子供は半年以上振りに会う私をもう放さない、といった感じで抱っこを止めるのを拒み続ける。これは困ったなどと口では言いつつ子供を抱く腕に自然と力が入る。本当に幸せだ。妻は今まで朝食を用意できなくてごめんなさいと言いながら、いそいそと朝食を作っている。結婚してよかった。
トーストとハムエッグ、お決まりとも言うべき一般家庭の朝のメニューだが、一年ぶりの家族揃っての食事は楽しいものだった。ちらちらと時計を伺っていたが時間が進むことはない。これは家族を守り続けた私に神様が与えてくれた時間なんだと思い込み、信仰したことのない神様に感謝をした。
私はこの時間を堪能し尽した。子供とお絵かきをし、妻と愛の言葉を交し合い、家族旅行などの計画をたてたりもした。時間が進むことは無い。もうこの事に何の疑問も抱かなくなっていた。
強く、名前を呼ばれた気がした。が、妻も子供も特に大声を出してはいない。最近は働き詰めだったからな。疲れが溜まって幻聴でも起こしたのだろう。昨日も疲れて電車の中で眠ってしまったし、年末くらい、少し休みを交渉してみるか。
電車の中で眠ってしまった?
それならどうやって私はここに帰ってきたのだろう。全く記憶が無い。妻に尋ねてみるが、いつも通りに夜中帰ってきて変わったことは無かったよ、と返答された。なるほど、もう体に習慣として染み付いているのかもしれないな。事実、私は今、私の家族がいる私の家にいる。
永遠とも思える十五分を過ごし、家族との団欒に満足した私は、今度は家族と外出をしたいという願望を持った。妻に提案してみるが、そんな時間ないでしょう、と断られる。時間ならあるんだ。時計はずっと四時四十五分を示している。この事に気づいているのは私だけなのかも知れないな。
教えてあげないと。時間ならたくさんある、と。
「大丈夫、時計を見てごらん。さっきからずっと四十五分だ。」
その言葉は発した途端、家族の表情が消えた。今まできゃっきゃと笑っていた子供も、やさしい笑顔を浮かべていた妻も無表情だ。本当に時が止まってしまったようだ。
カチ――今まで時を刻まなかった時計の針が、時が止まると共に四十六分を指した。そして強烈な眠気に再び襲われ、私は抗いながら瞼を閉じた。
目を覚ますと私は病室にいた。
ベッドの隣には涙を流しながら、私が起きたことに安堵する妻。どうやら過労で倒れたらしい。
私は転職をすることにした。給料は若干下がるのだが、前の会社の鬼のような仕事量はない。休みもある。家族との時間を確保できるのだ。
偽りの十五分の中で時計の針が進まなかったら私はどうなっていたのだろう。もしかしたら今もまだ幸福の幻想に囚われたまま、現実には戻らなかったかも知れない。次、もう一度あの幸福な時間に囚われたら、再び時計の針が進む保障はどこにもない。
私は家族を守る。そのための転職だ。
/幸福の幻想 了