こんにちは。
妻と神寄木賀集ゆかさんのブログの内容についてあーだこーだ話し合うのが楽しくて仕方がないzenです。
今日も神寄木さんのブログが沁みる…。
僕の「我が子たちの喧嘩」に対してとってきた態度を検証してみたいと思います。
目の前の誰かに何かを言い聞かせたり、
自分が「正しい」と思うようなことを
尤もらしく諭したりしている時に、
『鏡の法則』を思い出してハッとなって
「あ、目の前に映っているのは誰かじゃない。
そこに在るは、幼いわたしだ」と気づき、
「ごめん。今言った事は、全部自分に向けた
言葉だった。どうもわたしは、あなたを通して
自分を観ていたようだよ」と、気づいたままを
伝えられる自分にあるでしょうか。
この点に関しては気が付きました!
だけどそのことをちゃんと伝えたっけな?
自己反省で終わってたかも…。
そして「責め立てる」「言い負かす」
「追い詰める」ことによって、スッキリしたり
鬱憤を発散させた後に、「あ…」と気づき、
「やってしまった」事に気づいたならば、
目の前の「もう一人のわたし」という「師」が
小さな子供でも、大人でも無関係に、
「さっきは感情的になってごめんなさい」
「先日はわたしの理解が未熟で
大変失礼な態度をとってしまいました」等々
自分の至らなさによる八つ当たりを認め、
全てのわたしに等しく変わらず敬意を持って
學ばせて頂いた事への感謝を込めた
「言霊」を発しているでしょうか。
他者とは「もう一人のわたし」です。
そして霊性進化の方向を照らしてくれる
偉大なる「師」でもあるのです。
「鏡に映るわたし」へ敬意と感謝を持つは
「陰陽一対」を成すスタートライン。
うーん…。沁みる。。
「子どもからは学ぶことばっかり」とか「子どもはほんとに偉大な先生だ」とかの言葉は、
妻や知人と話をする中でよく言うことがあるけれど、
子どもたちに対して最大の敬意と感謝を込めた「言霊」は発したことがなかったかも。。
今度言ってみよう。
だけど、言ってみようと思うだけで若干の躊躇が生まれてしまうのはなんでだろう?
プライドがあんのかな?
まだまだ「鏡の法則」を腑に落としきれておらず、
子どもたちを「師」として認め切れていないということかもしれないな。
「正そう」とばかりする観点を持つ人は
「あるがまま」をいつも探してしまいます。
「どうすれば素直になれますか」
「どうすれば、ありのままになれますか」
と自我はよく問うものです。
すみません!
それ僕です!
好ましくないことは、いつだって到来します。
「無限なる全て」を持つわたし達に
到来しない世界は存在し得ないのです。
「嵐」だとわかっていても、何も対処せず
快晴のように過ごせば危険になります。
「嵐」をよく認識し、それと共に在るよう
「わたしの在を調え創造する」ことによって
「快適な共存」が具現化するのです。
これが「律する」という世界観です。
「好ましくないことは、いつだって到来する」
…この観点はなかったかも。。
ずっと、好ましくないことを無理やりなくそうとして もがいてたなぁ…。
それにしても「律する」という世界観…かっちょいい。音がいいね👍️億が一もし次子どもが生まれたら、「律」にしようかな(笑)
「嵐」の中でも「雨風をしのぐ部屋の中」で
仕事を進めていくように、幼き自我を
上手に先導するわたしに成っていく。
「全部一気に思う儘へ変われ」を求める
その我欲が「成らない世界」を創るのです。
本当にすみませんでした!!!
「現実という強烈な反射光」の直視を
わたし達はいつも避けようとしますが、
スピリットが唯一3次元へ届ける光です。
反射光の全ての世界が、わたしの片割れ。
いつだって「わたし」は「わたし」を導こうと
ただ懸命に「現実という最善の學び」を
「気づいて」「どうか」と投下しているのです。
それへ「感応する=気づく」わたしになる。
そこは「素直」という音が響く場。
なんか、泣ける。。。
創造は「意識とエネルギー」が全てです。
「あなたというわたし」が、どれだけの
「大切な宝」を提示してくれていたのかを
あの時、わたしは何一つ気づこうともせず
独りよがりになっていたのだ、という
認識をしっかりと捉えた意のもとに発する
「教えてくれて本当にありがとう」
「とても感謝しています」等々の音達は
大きな「循環」を創造するのです。
あぁ、心からの「ありがとう」を子どもたちに伝えたい…。
世界が「美しい」と感じる瞬間を
わたし達はたくさん創る事が出来るのです。
このどうしようもなく下降していく世界は
わたし達が「込めるもの」や「意識の観点」を
捉え間違え続けた果に過ぎない。
「惑星地球・国・社会…」という単位で
世界を観てしまうと、無力を感じますが
それらを創っているのは個々の意識です。
つまり「自我の意識場の在り様」を
各々が「たった一つ」変えるだけでも
意識とエネルギーで繋がる存在場の世界に
大きな波紋となる「はじまり」を創ります。
「わたし」の事を最優先で創った世界が
今の具現化された世界です。
これまで政治家として「国」や「制度」にたくさん文句を言ってきました。だけどそれは、「個々の意識」が創ってきたもの。僕にも完全な責任がある…。肝に銘じておきます!
この世界を、このわたしを、解脱という
「反転させる方向へ生く」ならば、
「わたし」という意識を最後尾へ下げます。
そして『鏡の法則』は「わたし」という意識を
最後尾へ「下げて」はじめて使える機能になる。
「自が他を最優先へ、他が自を最優先へ」
他という「もう一人のわたし」を観て動く
他(裏)が為から「はじまる循環」において、
結果的に「自(表)が為へ還り」全て調う
完全なる融合的循環の創造へ挑む―。
「わたし」という意識を最後尾に下げる…。
長い間「自分の気分」や「自分の感情」を最優先にしてきた僕にとってはかなりのチャレンジだ。最近玄関の靴を並べたり、皿を洗ったりなど、これまでめんどくさくてやってこなかったことを少しずつやり始めてはいるが、まだまだだな。
―――
最後のほうは「喧嘩」の話から離れてきてしまったかもしれないけど、
最後に「今後の子どもたちとの関わり方」に焦点を絞ってまとめてみたい。
まず、「鏡の法則」をしっかりと腑に落とし、
子どもたちを「師」として心からの敬意と感謝をもって接していくこと。
そして「嵐」(=好ましくないこと)はいつだって到来すると心得る。
これまでは「喧嘩」をなくそうと必死になっていたけど、
「喧嘩」はあるもんだと受け止めていこう。
そして自分自身を「律する」ことで、
「喧嘩」がある中でのちょうどいい暮らし方を模索していこう。
同時に「わたし」という意識を最後尾に下げていくことに挑戦しよう。
たとえ子どもたちの喧嘩にイラついたり怒りが沸いてきたりしても、
その「気持ち」に振り回されないよう気を付けたい。
自分の「気持ち」よりも、子どもたちのために尽くせる自分でいたい。
それを実践していく「宣言」という意味でも、
まずは子どもたちに心からの「ありがとう」の言霊を伝えたいー。
