こんにちは。zenです。

 

僕は毎日「神寄木賀集ゆかさんのブログ」を読んでいますが、

最近の記事は「僕のことを思って書いてくれてます?」っていうタイムリーな記事が多くてですね(自意識過剰ですみません!)、とにかく刺さります。

 

ということで、いきなり「神寄木ゼミ」を始めたいと思います。

 

何それ?

 

「神寄木ゼミ」とは、

神寄木賀集ゆかさんのブログを教材にして、

僕の気付きを共有するコーナーです。

 

みなさんにとっても、何かしらの刺激になれば幸いです。

 

(神寄木賀集ゆかさま、勝手にゼミの先生仕立てにさせていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げますm(__)m)

 

 

それでは早速参りましょう!

 

本日の教材はこちら↓

 

(「ぶつ切り」で読むのと、「全編通し」で読むのとでは受け取る印象が全く変わってくると思うので、可能であれば「全編通し」で読まれることをお勧めいたします)

 

 

現実という「鏡」を観て 「我が身」へ返す

目の前の「事象」を正す 観点を手離す

 

本日のテーマですね。

僕は特に子どもたちに対して「正そう」とする癖がありますので、

どうぞ厳しいご指導を願いますm(__)m

 

「放った全てが巡る還る」宇宙の法則は
見事に「わたしが創ってきた全て」
「わたしが放ってきた全て」を
「現実という世界」にマルっと返します。


つまり、目の前に現れる事象は例外なく「わたしが創造したもの」だということ。

「見たくない現実」「認めたくない現実」もすべて「わたし」が創っている。

このことを腑に落とすことが、スタート地点。

 

目の前の世界に「不平不満」「怒り」
「悲しくなること」「寂しくなること」等々
様々に投影する感情や周波数は、

全て二元構造の自我の意識場の
「否定側(裏・盲目)」に押し込めて、
「あってはならぬもの」として封印してきた
「わたしの一部」でしかないのです。

(中略)

「否定=強烈なフォーカス」をすれば
それが具現化するのは当然です。
宇宙に「人間語」は一切通じません。
「意識のフォーカス」が全てです。
「~しない!」と言葉で決めたとて
「嫌悪・否定」は強烈なフォーカスです。

つまり「二元構造」が持つ限り、
そしてそれが強烈であればあるほどに
「否定側」はいつも具現化するのです。

 

毎日繰り返される「子どもたちの喧嘩」は、僕が「あってはならぬもの」として封印してきたものの現われにすぎない。。

「人を傷つけてはならない」

「優しくあるべき(特に兄は)」

「奪ってはならぬ」

「分け与えよ」

「いつも穏やかであれ」…

言われてみれば本当に僕の中には「こうあってはならぬ」「こうあるべき」という強烈なフォーカスがずっとあったな(今も)。見事にそれが「具現化」されていたのかと思うと…。

 

 

例えば、自分の「思い通り」にならない事へ
不平不満や文句ばかり言ったり、
自分の主張をごり押しするような人達が
目の前の現実にいるならば、(←息子たちです!)
「わたしってそうやって生きてきたんだ」と
まず自分へ返し観ていきます。


表現は異なれども、結局のところ
「わたしの正しさ」しか通しておらず、
「誰に訊く迄もなく当然に正しいこと」と
「こうあるべき」を傲慢にも振りかざして、
他者に説いたり、他者を否定したり、
偉そうに主張をごり押してきたなと返し観る。

 

グサリ。。

ぐうの音も出ません。。

 

鏡に映る一方のわたしの在り様をみて
「わたしは他の観点に敬意も傾聴も持たず

自分の観点だけを正しき全てとして

世界を認識しているのか」と、

自分へ返し観たら、リスタートです。
 

「目の前に在る」は「幼きわたし」
=「今この瞬間の學び多きわたし」です。

 

早くこの地点にスッと立てるようになりたい。

 

まずは「我軸」を手離して、
「相手の世界を知る」傾聴からはじめます。
振る舞いに対する否定も肯定もなく、
「どうしたの?」と、ただ状態を問う。

「不平不満や文句」と称する世界や
「主張をごり押し」する鏡側の世界が、
どういう世界観に在るのかを、まずは
「學ばせて頂く」傾聴が一歩目になる。

 

なるほど「傾聴」かぁ。

次 喧嘩が勃発したときに早速試してみよう。

子どもたちを正したり諭したりしようとせず、

ニュートラルに「どうしたの?」と問うてみる。

 

すると「他という幼きわたしの鏡」は、
思う儘に行かない世界がなぜあるのか、
次々に生まれ出てくる不平不満の感情を

どうしていいのかが、ただわからず、

原因不明の痛みを抱え続けるような

その盲目が苦しくて辛くて、

 

溺れかけながら必死に振り絞るように

「助けて」と自らの状態を

「不平不満・文句・攻撃・反発」等々で

表現している様が観えてきたりする。
強烈な主張は「SOS」である事は多いもの。

「ああ、そうだったのか。どうすれば
今自分が感じている辛苦が消えるのか、

どうすればこの体験を終わらせる事が

出来るのかが、全く観えなくて、
バタバタしてるんだ。なんだ、

それならば、わたしと同じだね」

 

と解する時、表のわたしの「否定世界」は、
裏のわたしの「肯定世界」であるだけで、

結局わたし達は、同じことを真逆の形で

表現しているだけなんだと、

やっと観えてくるのです。

わたし達は間違いなく一対で、

プロセスは違えど「鏡」として支え合い
いつも「未知という進化」へ向かって
あがいたり、失敗したり、間違ったり
色々な体験を経ている最中なんだね、と
やっと陰陽一対の世界を解するのです。

「鏡」は互いを綺麗に映し合い、そして
支え協働し合う一対の同志であって、
決して反発し合う存在ではないのだと
「共存」の観点の光のあたたかさに気づく。

 

あぁ、これまで一体どれだけの「鏡」と「反発」し合ってきたか(子どもたちだけに限らず)…。

「鏡」はみな、支え協働し合う一対の「同志」なのか。

この「共存」の観点が腑に落ちた時、たしかに「あたたかさ」が溢れてくる予感はある。

ただ、言うは易く行うは難し。

実践あるのみ。

 

「鏡側のわたし」の

「理」を解する傾聴へ挑み、他のプロセスを

「何も変えず、ただ共に在る」を創造する。

ただ真摯に「耳を傾けて」みるのです。

何かをしようとせず、ただ相手の語る世界を

 

「共に観る」ように「そうかぁ」と寄り添う。

 

(中略)

融合的協働創造は「究極の癒し」です。

 

鏡側のわたしが語りたいがままに耳を傾け

肯定も否定もないフラットな観点に立って

 

ただ「うん」と相槌を打ちながら世界を眺め

 

もう一人のわたしが、一切の否定のない

 

安心と安堵の世界観の中で、体験世界の

「在るがままを、思うままに言葉へ転換する」

という具現化を成せるよう協働創造します。

 

「肯定も否定もないフラットな観点」にまじで立ちたい!

ついつい「ジャッジ」しちゃうから。

「真の傾聴」にチャレンジしたいな。

 

傾聴は「一対」への行動グラウンディングです。

スピリットは調律さえ出来れば、自らで立ち

一人でいかなるをも超えていける「無限」です。

 

「可能性」は自分で開拓していくもの。

 

わたし達は「調え合う」為に鏡し合っています。

 

鏡を見て調えて「ありがとう」と立ち上がる、

 

そんな自分で在ろうと行動グラウンディングする。

 

うーん…、唸っちゃう。沁みるなぁ。。

ついつい「コントロール」しようとしてしまうワタクシメ…。

スピリットにそんなものは必要ないのだ。

「コントロール」ではなく「調律」。

相手を変えてやろうとかするのではなく、あくまでも“自分”を調えていく。

そんな自分で在る。

 

すると「必要分」の時を経て、ふと見渡した時、

きっと現実の景色が随分と変わっている はず。

「否定・攻撃・反発・怒り・不満」等々の

コントラストの発動がなくなった分だけ、

「 鏡側のわたしへの敬意と感謝 」という

慈愛(自愛)が具現化された現実になるのです。

つい、現実という鏡側へ向かって突っ込み

「対処」をしてしまいそうになる時、

互いに「盲目」を鏡し合う同志と捉えて

「共存へ自らを律する」観点を使ってみて―。

 

ぜひチャレンジしてみます!

 

本日も濃厚な授業をありがとうございました!!!

 

 

 

 

本日のテキストの全編はこちら

↓↓↓

【覚醒★2023】「共存へ律する」観点の創造:「鏡側のもう一人のわたし」に耳を傾け「同志」と成る

(今回の記事は結構引用箇所が多かったかもしれませんが、それでもかなり端折っています)