戦後に大きく変わった 農家の暮らし。新潟の街 | オーガニックスタジオ新潟社長の奮闘記 │ おーがにっくな家ブログ

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「オーガニックスタジオ新潟」社長のブログ。かっこいいエコハウスを提供するために日夜奮闘中。役立つ「家づくりの知識」は、オーガニックスタジオ新潟のHPにて更新。このブログでは個人的な関心ごとと「工務店経営」についてがテーマ

10周年文化事業の際の資料が好評だったので、

ブログでも公開します。

 

鎌倉時代とあまり変わらない 昭和30年代の農家の暮らし


昭和30年代の郡部の農家のほとんどは、
鎌倉時代とあまり変わらない

粗末な住宅に住んでいた。

 


 

戦後間もなくの、巻町福井集落は100兼の集落だが、
屋根に瓦の乗る家は、わずか4件しかなく、
他は、木端葺きに石置き屋根であるか、茅葺屋根も多かった。


屋根に用いる背丈の高い茅(カヤ)は、鎧潟付近で多く取れたので、
茅葺が多かったようだ。。

 


角田山に近いエリアだと、カヤが生えてなく、ススキになる。 
その代わりに、木材の入手は容易になるので、木端葺きの石置き屋根が多くなる。

 

そのように、トラック輸送がまだされていない時代には、

その地で入手できる材料を持ちて家は建てられてきた。

 

(この写真に、西方里見氏は大興奮した。 

こうした裕福でない農家の住宅の資料がほとんど残されてないという。
お世話になっている師匠に、斎藤文夫氏の写真集を1冊進呈した)

 

家は金で買うものでなく、みんなでつくるもの


集落には建築知識のある大工棟梁を筆頭に、
建て方や、茅葺など、労働力の集中的に必要な局面では、
親戚一同、何日も手伝いに繰り出される。
いわゆる「結い」によって住宅は新潟でも作られていた。

上棟式は 神事というより、お祝い事と慰労会の性質で、
苦労へのねぎらいと、家を建てることの喜びで
朝まで飲み明かした。

住宅は 地域に手に入るものを用いて、
地域と一族で みんなで作り上げる、いわば皆のものだった。

 

高度経済成長と機械化で変わる農家の暮らし

 



40年代になり国の高度成長により、
豊かさが農村まで及んでいくと、農業も機械化がされ、

大人数で農業しなくても良くなり、もしかあんにゃは余剰人員になり、
主に首都圏の労働力不足を補うために、郡部を離れて移っていった。

 



大家族で暮らす「家主義」が、
夫婦とその子供の。 家族単位で暮らす「家族主義」になり、
夫婦と子供二人が「標準世帯」と言われるようになり、
国の政策基準となった。



「実家」を離れた次男や三男の世帯は「分譲地」を買い求め、
家をローンで買うようになった。 

都市部では米も野菜も採れない。

 

土地も  家も 買うもの。


全て主人がハードに会社で働いて手に入れた、
お金で買うような社会になる。

「封建主義」から「資本主義」へ
「家主義」から「家族主義」へ

 

日本人の暮らしの歴史の中で、

最大の革命であったのではないだろうか?

 

 

そして、「高度経済成長」と

「自家用車の普及」の二つが、

新潟の街を拡大していった。

 

 


古い地図を時系列で並べると、

高度経済成長期に強烈に街が膨張した様子が見て取れます。