斎藤文夫様から学ぶ、昭和30年代の郡部の暮らし。 | オーガニックスタジオ新潟社長の奮闘記 │ おーがにっくな家ブログ

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4年ぶりに郷土史家でカメラマンの、斎藤文夫さんを訪ねに、
旧佐藤家を訪れました。

 

御年86歳の斉藤翁は交通事故で足を悪くして
杖が必要にはなったが、至って健康そうで何よりです。

 


かつて紹介しているので 詳しくはリンク先

「住まいの基本を考える」 トークフォーラムの準備で、
新潟の住宅の歴史を研究しようとWEBで探したが、資料は皆無。
そこで思い出し、斎藤様の自費出版の写真集をめくったら、
明確な変化がそこにあった。

 



斉藤様の写真は、主に新潟市西蒲区(旧巻町・岩室村)という
新潟の郡部を、定点観察で、移り変わりを記録していている。

 

 宮本常一の「忘れられた日本」にも通じるような、貴重な写真は
自費出版で何度か製本化され、在庫のみ旧佐藤家で販売されている。


気づくのは、昭和30年代と、40年代とでは、
日本はまるで別の国になってしまったように、大きく変ったことだ。

 



昭和30年代まで、農業は機械化がされてない中で、
人海戦術で米を作っている。人力や牛に犂を引かせて土地を耕し、

 


苗は手植えで、収穫も手で行い、ハザキに干して乾燥させる。
すすべて人力である。
いかに農家が手間がかかり重労働であったか。

農業は手間がかかるし、
かつては新乳児死亡率も高かったのだろう、
祖父の代では10人兄弟あたり前。家に10人~15人住んで暮らしていた。



 

もしかあんにゃ(もしかしたら長男になるかもしれない男子)
の言葉にもあるように、家長制度の「家主義」で、
土地に依存した、「封建主義」の社会で、

江戸時代とあまり変わらぬ だれもが貧乏が当たり前の時代。
現代のカンボジアの農村とさほど変わらない状態の暮らしである。

 

日本の郡部は わずか60年前はどこもこんな感じだった。

 



機械化がされていないということは、車も重機も無い。
物の移動も 土の掘り起しも全部てっぱ。
すべてのエネルギーは人力であるから、米がガソリンのような働きをしていた。

斉藤翁の話しでは、1人米5合食べていたと言う。
戦国時代の国力は、石高で表現され、

 


米の取れる量=カロリーが、維持できる人口を決めてきた。
だから明治期で一番人口が多い都道府県は新潟県であったのだ。