気温12℃、桜舞い散る東京からこんにちは。

明日もう一度くらい桜を見に行っておこうかな、なんて毎日思っていても、、

-明日ありと 思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかわ-

「この世は無常であり今を盛りと咲く桜が、夜中の嵐で散ってしまうかもしれません。
 同じように、私の命もいつなくなってしまうかわかりません。
 どうか、今ここで得度の儀式を執り行って下さい。」

爐發γ戮いら明日にしよう瓩箸い辰浸錂地他阿法
 わずか9歳だった親鸞聖人が応えて詠んだ句だそうです。

桜は儚いものの象徴としてよく用いられますけど、
私たちは明日自分が死ぬこと、例え高齢になってもそうは考えないものらしい。
明日とはいわず何年も先の話に希望を持ったり絶望したりする私たち。

ご高齢の人たちと一緒にいると気付かされるけれど、
彼らの会話の中心は猊袖い力辰搬里砲いたべ物の話瓩嚢柔されている。

それにしてもあの時代にけっこう長生きされたんですね、親鸞さん。
1212年(建歴2年)に80歳で入滅*とあります。
歌を詠んだ9歳の頃にはそんなに生きると思わなかったろうなー。

そんな親鸞さんの日常ではどういう会話されてたのかしらね?

むしろこの世は常、あぁ、無情って気がしてきたわ。。。。


*「入滅」とは、宗教的に目覚めた人が死ぬことも意味する。
  完全な解脱は肉体の完全な消滅、「死」によって完結することから。
  一般に仏の死去は入滅といい、高僧の死去は遷化というが、
  特に宗祖の遷化を入滅と表現することもある。(ウィキペディアより)