私は目先の出来たを目指さず、自分の頭で考えることを
重視した教育が大切だと思っています。
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ある課題に対して「出来たか出来なかったか」
という物差しで測る教育は、
結果を重視した教育です。
それに対し「考えたか考えてないか」を問う教育は
過程を重視した教育です。
面白いのは、
ピアノという受験にも就活にもあまり役立たない芸術を
学びたいor我が子に学ばせたいと思う人は
過程主義の方が多いのに、
いざピアノを前にするとコロッと結果主義に反転するのです。
ピアノレッスンは技術を習得する分野でもあるので、
そのような反転が起こるのでしょうが、
「ピアノを習うことによって生活に彩りをつける」という
目的ならば
「出来ても出来なくても頑張ったんだからOK」という
考え方のほうが結果主義よりも遥かに効果的です。
結果主義でピアノを弾き続けると、
ただただ大音量とドヤ顔で弾き倒し、プロを含めた他人の演奏に対して
批評ばっかりする人になりかねません。
確かに演奏技術の上手い下手は聞き手にとって重要です。
ましてや自分の腕に覚えがあれば他人の演奏を聴いて批評もしたくなるでしょう。
しかし音楽には別の側面があります。
それは、自分がどんなに下手でも楽しめることや、
自分を表現出来ること、そして人と出会えること。
これらは上手い下手では測れないものです。
そして上手い下手の物差しだけで測る人は、
どんなに練習を積み重ねても得られないものです。
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そして“出来たこと”というのは意外と残らないのです。
“1ヶ月振りに弾いてみたら出来なくなっている”こんなことはよくあります。
以前面白い話を聞いたのですが、
転勤により親子で海外に住むことになった。
小学生のお子さんは特に現地の言葉を勉強するわけではなく
現地の学校の子どもたちの中に飛び込んでいってどんどん言葉を吸収して
どんどん周りの子と喋っていった。
一方、お父さんのほうはテキスト本などを読みながら一から勉強しているものの、
意思疎通出来るまで喋られるようになるにはかなりの時間を要した。
しかし日本に帰国して3年も経つと
お子さんのほうはもう転勤先の言葉は喋られなくなっていた。
その一方でお父さんのほうはまだまだ覚えていた。
このエピソードにあるように、
短観的にみると出来るように見えたことでも
長い目でみると身についていないことがあり、
それはピアノでもよく起こります。
ピアノ教育の現場の具体例で言えば、
お手本(先生)の見よう見真似で弾けるようになっても、
結局はそのお手本が無いと弾けなくなってしまうのです。
いわゆる“耳コピ教育”とよばれるものなのですが、
目先の結果を追いかけ回していると成長しないのです。
その一方で“考えたこと”というのは残ります。
“仕組みを学びそこから他のことにも応用してみる”
こういうのは時間がかかりますし結果が出るのが遅いです。
しかし目先の結果に惑わされずコアな部分の力をつければ、
その力はずっと残ります。そしてピアノ以外のことにも活かせられるようになります。
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お手軽に覚えたことはスグに忘れてしまいますし、
他のことに応用も出来ません。
しかし時間をかけて考えたことというのは頭の根本に残りますし、
それを基にほかのバリエーションにも変化対応できます。
確かに結果のみが重要な教育もあります。
受験とか就活などは受かるための勉強です。
受かりさえすれば後で忘れようが身についてなかろうが
どうでもいいでしょうし、受験科目にないものを勉強する必要もありません。
しかし“勉強”と“学問”は違います。
結果よりも過程を重要なものを学ぶときは、
出来たかどうかよりも考えたかどうかに
ポイントを置くことが大切なのではないでしょうか。