僕は、何か自分の氣持ちが揺れ動くことがあったとき、よく短歌を詠みます。

これは別に無理して詠んでいる訳ではなく、なんとなく詠んでしまうのです。

 

 小学校4年生の時に百人一首にハマって以来、短歌にはそれなりに触れ合ってきた事もあってか、僕は割とこだわって歌を詠んでしまいます。

 

 昔の日本人たちは、いかなる人でも好んで歌を詠みました。

各々が自分の揺れ動いた感情を短い歌にして、「美」として昇華するという、何とも素敵な趣向を彼らはもったいたことかと、僕は思います。

 

 

 では、僕がここ一年の間に詠んだ短歌の中で特に氣に入っているものを二首、ここで紹介したいと思います。

 

 ちなみにここでいう短歌というのは、文学的観点から分類した短歌の事ではなく、ただ、五・七・五・七・七のリズムを基調とした歌を指すものであるとします。

 

 

 では、一首目。

 

 

 愛せない 君を愛した 夜を越え

  恐れるものは 何一つない

 

 

 表現は直球ですが、自身の複雑な情愛について詠んだ作品です。

その「複雑さ」が感じられるのはやはり、「愛せない 君を愛した」の部分でしょう。

 そんな複雑な関係性である「君」を、愛してしまったからこそ、そんな夜を越えてしまったからこそ、「恐れるものは 何一つない」と、ある意味開き直って、前を向いているのです。

 

 ちなみに「愛せない」の部分は初め、「掴めない」としていました。

しかし、そこが上手くハマった感じがしていなくて、悩んでいました。

 そこで思い出したのが、「ジュテーム・モア・ノン・プリュ」というフランスの歌です。

この曲名から感じられる愛の複雑性から何か表現の手掛かりが得られそうだと思い、その後考え、弾き出した表現こそが、「愛せない」だったのです。

 

 

 では二首目。

 

 

 旅立ちの日に 未だ蕾吹かぬ 魔女の花

  彼はいづれに 花咲かすかな

 

 

 これは自分でもなかなか面白い歌だと自画自賛している作品です。

「蕾吹く」とは僕が思い付いて作った造語であり、「みぶく」と読みます。

 

 この歌については、僕が歌意を説明して納得してもらうのではなく、是非今この記事を読んで下さっているみなさんの独自の解釈をして頂きたいです。

 

 

 このように、歌を詠むというのは、自分の深い世界を簡単に表現できるとても楽しい遊びです。

また、何か氣持ちが揺れ動いたとき、その繊細な感情を歌にして、「美」として昇華することは、自分という存在を深く知り、自分の美意識に基づいた世界観を創っていく上でもとても有意義なことだと思います。

 

 是非是非みなさんも、歌を詠むことを楽しんでみて下さい。

 

 

今日もありがとうございました。