僕の志の一つである
本当に「幸せ」に生きる人々で溢れる世の中にする
が、どうして僕の中から生まれたのか、自己紹介を踏まえて紹介します。
僕は、父と母と姉と僕の四人家族の家庭で生まれ育ちました。
僕は家族の事が大好きでした。中でも母のことがとてもとても大好きでした。
母も僕のことをとても愛してくれました。いつも優しい母でしたが、同時にいつもとても疲れているように見えました。
幼い僕は、その原因が主に「お金」である事をなんとなく感じ取っていました。
父と母は二人で自営をしていました。しかし父が、PTAなどの学校関係の仕事で忙しくなってくことで、母への負担が増えたようでした。父は家に帰れば酒を飲みながらプロ野球を見て寝るだけだったので、家事もほぼ全て母が行いました。
幼い僕には、この家庭が母に頼り切りになっているように見えました。
「もし母がいなくなったら、俺らはどうなるんだ?」と思っていました。
当時はそれを想像するだけでも怖かったです。
僕が小学5年生の秋、母は末期の大腸がんと診断されました。そしてその一年後、母はこの世を去ったのでした。
怖れていたことが現実になってしまったのです。
僕は、最愛の女性が苦しんでいたのを知っていたのにも関わらず、何もできなかった自分をとても悔やみました。
母が死んでからは、姉が家事などを中心的にやってくれるようになりました。
僕は野球と学業に励み、「自分の事は自分でする」という基本的な習慣を付けていくようにしました。
父はというと、もちろん仕事もそれ以外の事も頑張っていたとは思うのですが、何か僕は父に違和感を覚えていました。
正直、当時母を一番救えたのは、家庭の力関係的に父であったと思います。
父も母もお互いに愛し合っていたことは知っています。
しかし母は晩年、僕と姉に、父の愚痴をこぼすようになりました。
母は控えめで優しい性格だったし、岐阜の田舎から一人で大阪の都会に嫁いできました。悩みを心から打ち明けれる人が周りにはおらず、僕たちに愚痴を吐いてしまう形となってしまったのでしょう。
僕たちは母の愚痴から、家庭が厳しいにも関わらず、父が自分勝手でだらしないままなのだというのを聞いていましたし、実際に当時の僕から見ても、家庭の父の姿はそのような人間に映りました。
母がいなくなったら、父は変わるのかなと思っていました。
しかし、当時の僕から見て、何か父が変わったようには見えませんでした。
僕が父に覚えた違和感というのは、母が死んでもなお続く、危機感の感じられない生活態度でした。
父はそれから姉に対して、母の代わりのような存在になる事を要求し始めました。
店番を頼んだり、炊事を頼んだり、たくさんの事を要求していたように思います。
ただでさえ拘りが強く、嫌味たらしく物を言ってくる父の要求を、姉は一生懸命呑んで、父を手助けしていました。
その時姉は、まだ高校生でした。
言っている間に、姉は進路を決める時期に来ました。姉にも色々な思いがあったのでしょうが、進学はせず、アルバイトをして家計を助けることを選びました。
それから父は、姉に対してお金の要求も強くしていくようになりました。
その頃僕は中学生で、勉強と野球に励み、自分の事は自分でしつつも、まだまだ友達とたくさんバカをしているような年頃でもありました。
それでも家の状況はなんとなく分かっていたし、姉から直接聞くこともありました。
しかし不思議と父は、少なくとも僕の前では家の状況について語ることはありませんでした。
それからも父の姉に対する家庭への要求は強いようでした。姉の前で怒号を上げて乱れることも多かったようです。
それでも父の生活態度は、何か危機感のないままでした。それは僕だけでなく、もちろん姉も充分に感じていました。
姉は、様々な葛藤を抱えていたことでしょうが、この先の見えない生活に耐えきれなくなり、家を出ていきました。
僕は姉から家を出ていくことは前々から聞いていたので驚かなかったし、姉にとってもその方が良いと考えていました。
父は突然姉がいなくなって混乱していましたが、仕方がありません。
なぜなら、今回の事態についても、一番家庭に対して責任を取れたのは父だったからです。
僕が高校に上がる頃は、僕は父と二人で暮らすことになっていました。
父は僕が高校1年生の頃、ついに自営をやめてドライバーになりました。
毎日お弁当を作ってくれたし、家事も父がやってくれました。
僕は高校でも、野球と勉強に力を入れていました。
勉強や学校行事での僕の成績や活躍は、はっきり言って凄まじいものでしたが、前にも述べたように、野球だけが、一番大好きな野球だけが全くうまくいきませんでした。
野球がうまくいかなくなって、僕は家で荒れることが多くなりました。
下手になっていく自分に耐えきれず、家のガレージでバットを二本叩き割った程です。
しかし、夜中にそのような様子でバットを振っている僕を見て、父がよく僕のスイングを見に来てくれました。
父は僕が小学校の時に所属していたソフトボールチームの監督で、父がいたからこそ僕は野球を始め、またこれまで続けることができていたのでした。
そんな父は、これまで野球をとても研究してきていて、僕は幼い頃から父に野球をたくさん教わってきました。
高校になって苦しんでいる僕を見て、父は全身全靈で僕に手を貸そうとしてくれていたのでした。
しかし、当時は本当にうまくいかなくて、父に試してみろと言われてやった事は全てダメで、むしろ益々下手になっているような氣がしました。
それでも父は根氣強く伝えようとしてくれました。しかし僕は、嫌味たらしく言ってくる父の言い方と、父の言う事を聞いて益々打てなくなったという当時の僕の中での事実、そしてそんな状況の自分に耐えきれず、父を怒鳴り上げて家に帰したことが何度もありました。
僕は父からの愛をとても感じていました。そして僕もそれに応えたかった。
しかし、父の言う事を聞いて余計に打撃が分からなくなったのは、当時の僕にとっては事実でした。
そして、僕はまだ苦しんでいるのにも関わらず、嫌味たらしく物を言ってくる父の姿勢を、当時の僕は許すことができませんでした。
「なんで俺の人生はこんなにも大事なものばかりを失う人生なんだ?」
最愛の母が死んだのをきっかけに、家庭は崩壊したのも同然です。
そして、僕の打撃のスイングは狂い、自信のある打球も打てなくなり、野球も楽しめなくなりました。
僕は父をとても恨みました。僕はこんなに苦しんでいてもなお、いい加減な生活態度は改まらないし、嫌味たらしい物の言い方も変わりません。
当時の僕は父の事が嫌いで嫌いで仕方ありませんでした。
父がいなければと何度思ったことでしょう。
しかし、父がいなければ、僕は野球に出会えていないし、続けてもこれていないでしょう。
そして、母の下で僕が産まれることができたのは、父が母と出会ってくれたからです。
さらに、家庭は崩壊したのかもしれませんが、僕がこうして高校生として不自由なく学校生活が送れている、そして大好きな野球がまだ出来ているのは、フラつきながらも父が家庭を支えてくれているおかげなのです。
僕は父を恨みながらも、このような事を理解していました。
要するに、父に感謝の想いを持っていたし、父を愛していたのです。
しかし、父を恨みながらも愛しているというこの複雑な葛藤を抱えて生きることは、当時高校生のまだまだ未熟な自分にとっては、とても辛いものでした。
少し長くなりそうなので、一度ここで切ろうと思います。
次回はこの続きから書いていこうと思います。
今日もありがとうございました。