こんにちは!おれ。の経世済民会です!

本日も記事をご覧いただきまして誠にありがとうございます!

 

 今回の記事では、自然派・オーガニック自炊のコツを書いていこうと思います。

 

 

導入

 

 昨今では、食事における自然派やオーガニックを取り入れる人が徐々に増えてきています。

 

 僕の中では、この動きは非常に良いものだと思っていますし、僕自身も普段の食事については自然派・オーガニックスタイルを取り入れています。

 

 では、自然派・オーガニックスタイルの食事について、簡単に説明した後に、僕自身がそのような食事を普段の自炊に導入していった経緯を踏まえ、その導入に際したコツと題したものを書いていこうと思います。

 

 

自然派・オーガニック食事とは

 

 これは簡単に言えば、身体にとって不自然な成分を除去した、自然なかたちの食物を用いた料理による食事のことです。

 

 野菜ならば有機栽培・無農薬、畜産ならば有機飼料・放し飼いなどが施されていたものが、自然派・オーガニックの生産物となります。

 

 生産過程にこだわっている分、市販の生産物に対して多少値段は張ります。

しかしその分、身体に対する安全性や、美味しさは変わります

 

 これらの事を詳しく述べるのは、別の機会にするとして、これからは今注目されている自然派・オーガニックスタイルの食事を普段の食事に導入していくためのコツについて書いていきます。

 

 

導入までの3ステップ

 

 このような食事を導入していくのは、面倒臭いと思われがちだと思いますし、僕も実際に、かつてはそう思っていました。

 

 しかし、コツさえ掴めば案外簡単なのです。

ですから、自然派・オーガニックスタイル導入に際するコツというものを、これから3ステップで解説していきます。

 

①自炊習慣をつくる

 

 これは、前提条件とも言うべきものです。

 

別になかったとしても良いのですが、自然派・オーガニックスタイルを普段の食事に落とし込んでいくことが目的ですから、自炊の習慣をまずは作っておくことがベストです。

 

②調味料をすべて、自然派・オーガニックスタイルに変える

 

 ここが最大のポイントです。

自炊習慣がついてきたら、調味料を自然派スタイルに一掃しましょう。

 

 この時、前の分が余っていたとしても、中身をすべて捨てて新しいものにしましょう。

少し勿体ないと感じるかもしれませんが、ここで一気に変えてしまうのがコツなのです。

 

 

 僕はこれらを主にスーパーで買い揃えました。

手段は何でも良いので、コツは一掃することだと覚えておいてください。

 

③生協を使う

 

 しばらくの間、素材は市販のもので、調味料は自然派という食事体制が続くと思います。

そこで、そろそろ素材も自然派にしたいなと思い始めたら、生協を使ってみましょう。

 

 スーパーでの自然派・有機食品というのはコーナーも品質もかなり限られています

ですから、本格的に自然派食品で料理をしていくとなると、生協などの食品配送が必須になるのです。

 

 

あとは、毎日の食事を楽しんでいこう!

 

 ここまで来たら、毎日の自然派・オーガニックスタイルを楽しむだけです。

 

 ここまでにおける最大のポイントは、②における調味料刷新です。

ここが、コツと言えるべき点です。これさえできれば後は流れに乗るだけです。

 

 では、毎日の自然派・オーガニックスタイルで、心身にとって良い食事を是非楽しんでください。

 

 

 

 本日も記事をお読みになってくださり、本当にありがとうございます。

読者のみなさんに、この混沌とした世の中で「幸せ」に生きるための気づきを何か少しでも提供できるよう、ベストを尽くして書いていきますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 こんにちは! おれ。です!

本日もブログをご覧いただき誠にありがとうございます!

 

 今回は、「子どもたちへの最高の教育とは」というテーマで書いた記事を再掲しようと思います。

 

 

導入

 

 今22歳(当時)で、結婚して子どもがいる訳でもない僕が、なぜこのようなテーマについて書くことができるのでしょうか。

 

 実は僕は、3年半の間、母校の小学校の放課後学童における地域指導員をしていました。

そこで僕は、子どもたちとたくさん触れ合う中で、子どもたちとは互いに信頼し合える仲となりました。

 

 以前、母校の卒業式を見に行く機会があったと書きました※が、それは当時の6年生に招待してもらったために行くことができたのです。

 ※昔のブログ記事にて、そのような内容を紹介したものがありました。

 

 そのような事が出来たのも、互いの信頼関係があってこそです。

 

 では、僕が子どもたちとの信頼関係を築く上で大事だなと思ったことと、それを踏まえて、僕たち大人ができる、子どもたちへの最高の教育とは何かということについて、僕が考えていることを、述べていきたいと思います。

 

 

実を言うと…

 

 実を言うと、これから書くことは、「子どもたち」に限定した話ではありません

老若男女、誰と対する時でも、信頼を築いていくうえで大切なことです。

 

 もちろん、大人に対しての教育を行う場合でも、同じだと思っています。

 

 では、そのことを踏まえた上でまず、「子どもたちと信頼関係を築く上で大切なこと」について書いていきます。

 

 

相手を尊重する姿勢を持つ

 

 これに尽きるでしょう。

 

 相手は確かに子どもたちですが、「子ども」と認識してなるべく接さないようにしましょう。

彼らだって幼いかもしれませんが、一人間です。意志や思い、気持ちを大人と同じくして持っています

 

 彼らに対してそれを尊重する姿勢を持ってください。

 

 彼らが僕たちにとって理解できないようなことをしていても、まずはそれを尊重する姿勢を持ってください。

また、彼らの世界観を理解しようとすることも大切です。それに目を向ければ、案外大人の視野って狭いんだなと気付かされることもしばしばです。

 

 だからまずは、彼らを尊重するという姿勢を持つことが大切です。

 

 では、これらを踏まえたうえで、僕らができる、子どもたちに対する最高の教育について、僕の考えを書いていきます。

 

 

カッコいい生き様を魅せよう

 

 結局は、その人の生き様や、生きている姿勢というのが物を言うのです。

 

 では、ここで言う「カッコいい」とは、どういうことを言うのでしょうか。

 

 それは、「愛を持った」であると僕は思うのです。

 

 では、「愛を持った生き様」とは、具体的にどのようなものでしょうか。

 

 それは、答えることができません

 

 なぜなら、愛の示し方というのは千差万別であり、何をもってして「愛」というものを示すのかはその人の世界観によるものだからです。

 

 しかし、ただ一つ言えることは、「愛」とは、「相手を尊重する姿勢」を持つことで生まれてくるものであるということです。

 

 

僕たちがまずすべきことは何か

 

 ここまで書いたところで、最後に、僕たちがまず始めにすべきことを書きたいと思います。

 

 それは、まず「自分」という一番身近な人間に対して、「尊重する姿勢」を持ち、「愛」を示すことです。

 

 まずは、あなた自身が満たされないと、他人を尊重する姿勢をとる余裕もできないし、故にあなた独自のカッコいい生き様もとれません

 

 だからまずは、自分という人間を大切にしてください。

 

他人に愛を示すのは、あくまでその後です。

 

 では、今回の記事は以上です。

ありがとうございました。

 

 

 

 本日も記事をお読みになってくださり、本当にありがとうございます。

読者のみなさんに、この混沌とした世の中で「幸せ」に生きるための気づきを何か少しでも提供できるよう、ベストを尽くして書いていきますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 こんにちは。おれ。の経世済民会です!

本日も記事をご覧いただき誠にありがとうございます!

 

 今回は、「過去のトラウマは、仕組みさえわかればもう大丈夫」という内容で記事を書いていこうと思います。

 

時間を理解する

 

 「過去のトラウマ」というのが、一体何なのかというのを理解するには、「時間」について理解する必要があります。

 

ここで言う「時間」というのは、何時何分何秒というような「時刻」のことを指すのではなく、

子どもから大人になる、季節が巡るなど、そのような「時の流れ」のことを指します。

 

 地球上ではみんな、この「時間」という原則に従って生きています

 

 だから、この「時間」というものが、どのような原則を元に動いているのかを理解することは、あなたの人生にとって非常に重要なことなのです。

 

 

時間における正しい認識

 

 では、「時間=(時の流れ)」における絶対原則について、あなたが正しい認識を持てているのか確かめてみましょう。

 

 時間には、主に二つの概念があります。

 

 それは、過去今(現在)です。

 

 

 そして、時間軸というのは、このように直線で示すことができます。

ここまではみなさんも理解できているのではないでしょうか。

 

 では、ここで質問です。

 

 時間というのは流れがあります。

では、その流れは、下のABの矢印の、どちらの向きで流れていると言えますか。

 

 

 

 

 正解は、Bです。

 

 なぜなら、上の行の「正解はBです。」という文章をあなたは、たった「今」読んだと思いますが、既にもうそれが「過去」になっているではありませんか。

 

 要するに、「今」という時間を積み重ねたものが「過去」であるのです。

 

 しかしながら、多くの人は、Aの矢印の向きであると勘違いをしています。

 

 要するに、「過去」の積み重ねが「今」だと思っているのです。

 

 

過去のトラウマの仕組み

 

 よって、「過去のトラウマ」というものに囚われている人というのは、時間感覚をAの場合で捉えてしまっています

過去の出来事の延長上に、今の自分が存在する と捉えているのです。

 

 しかし、先ほど述べたように、実際の時間の流れはBの向きです。「今」を積み重ねたものが「過去」であるのです。

 

 だから、「過去のトラウマ」に囚われている人というのは、

 

 「『過去のトラウマ』に囚われている自分」という「今」を積み重ねている 状態であると説明できます。

 

 

 

対処法

 

 仕組みとして、それがどのような状態であるかというのが分かってしまえば、もう大丈夫です。

 

対処法としては、

 ①正しい時間感覚を理解する

 ②「『過去のトラウマ』に囚われている自分」とは違った「今」を生きていく

となります。

 

 ①は、要するに、「時間」というのは、Bの矢印の向きに流れているという事をまずは理解することです。

 ②は、根本的な対処法なのですが、ここで書くと長くなってしまうので、また別の機会に詳しく書きたいと思います。

 

 ですから、今回の記事では、正しい時間感覚を理解してもらえればOKです。

それだけでも、あなたの人生に充分役立つでしょう。

 

 では、今回の記事は以上です。

ありがとうございます。

 

 

 

 本日も記事をお読みになってくださり、本当にありがとうございます。

読者のみなさんに、この混沌とした世の中で「幸せ」に生きるための気づきを何か少しでも提供できるよう、ベストを尽くして書いていきますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 こんにちは! おれ。の経世済民会です!

本日もブログをご覧いただき、ありがとうございます!

 

 今回は、過去に僕が書いたブログ記事である「幸せの三角形」という内容を再掲したいと思います!

 

導入

 

 そういえば、今年の三月(2024年)の末、Honamiさんという女性実業家の方が宮島で講演される機会があったので、足を運んできました。一度、実際にお会いしてみたかったのです。

 

 彼女は一体何をされている方なのかというと、

一般的に「潜在意識」と言われている言わば僕たちの無意識が、どのように自分たちに影響を及ぼしているのかを理解し、それを応用していくことで、自分たちの望む現実を創っていけるということを、強く発信されている方です。

 

 僕も大学3年生の頃、「『幸せ』に生きるのは?」ということについて深く研究しており、潜在意識についても学んでいました。

その際、Youtubeでこの方を見つけ、潜在意識についての理解を深めさせてもらいました。

 

 彼女は昨年(2023年)新しい本を出版されて、今回僕が運んだ講演会というのは、その本の出版記念を祝ったものでした。

 

 今回の記事は、その彼女が昨年出版した本である「幸せの本質」という本から、僕が共感した内容についてのお話をしていこうと思います。

 

 

幸せの三角形

 

 その内容というのは、「幸せの三角形」というものです。

 

それは、彼女がまだ20代の頃、不思議なご縁で出会った女性から教わったものだそうです。

 

その女性は、「幸せに豊かに生きるためには、健康という最重要の要素を土台として、その上に人間関係を、そして経済を積み上げていくことが大切だよ」と説き、わかりやすく、三角形を描いて教えてくれたそうです。

 

 その内容というのがこちら、

 

 

 この要素を下から順に積み上げて、整えていくことが、自身の「一生涯続く心からの幸せ」への最短ルートであると、彼女この本の中で述べています。

 

 しかし、これらの要素を積み上げて、自身の「幸せ」を手にしていく前に、必ず最初に向き合わなければならない事があるようです。

 

 

一番大事なこと!

 

 それは、自分にとっての「幸せ」とは何かというのを明確にすることです。

 

 ここで最も重要なのは、「自分にとっての」という部分です。

一般社会で謡われている「幸せ」が、必ずしもあなたにとっての「幸せ」とは限りません

 

 外からの様々な情報に惑わされず、「自分は人生で何に価値を置いているのか」を冷静に見つめていく必要があります。

 

 要は、あなた自身がこれからどうやって生きていくのか、

即ち、あなた自身の「生き方」を、ここで明確にする必要があります。

 

 

さあ、「幸せ」に生きよう!

 

 前項を踏まえた上で、自分なりに簡略化して作った「幸せの三角形」がこちらです。

 

 

 生き方が定まれば、この三角形を下から整えて、積み上げていくだけです。

 

 今回使わせてもらったHonamiさんの内容は、とても分かりやすくて、本質的だと思います。

 

 今回紹介した以外の、彼女の発信する内容も、とても本質的なものです。

よければ以下にHonamiさんの活動サイト等を複数載せておきますので、ご参考にしたい方は是非見てもらえればと思います。

 

 

 今回の記事は以上です。

本日もありがとうございます。

 

Honamiさんの情報発信サイトは以下

大丈夫!すべて思い通り。Honamiオフィシャルブログ

Honami(@honamicoach) • Instagram写真と動画

Honami - YouTube

 

Honamiさんの最新書籍の情報については以下

幸せの本質 一生涯続く笑顔あふれる人生のつくりかた | Honami |本 | 通販 | Amazon

 

 

 

 本日も記事をお読みになってくださり、本当にありがとうございます。

読者のみなさんに、この混沌とした世の中で「幸せ」に生きるための気づきを何か少しでも提供できるよう、ベストを尽くして書いていきますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 こんにちは。おれ。の経世済民会です。

本日も、ブログを見ていただき、誠にありがとうございます。

 

 僕は昔から、利他思考が強く、貢献意識の強い人間でした。

そして僕は、「最も人のためになる仕事は何なのか」という問いを、昔からよく持っており、願わくばそのような職に就きたいと考えていました。

 

 そこで今回は、最も人のためになる仕事、詰まるところ、最も徳のある仕事とは何かということにおける、僕の考察を書いていこうと思います。

 

 

徳のある仕事とは

 

 ここで、「徳のある仕事」についての定義を再確認したいと思います。

 

 簡単に結論付けるならば、それは、「社会や他人の幸福に寄与する仕事」のことです。

 

 

では、最も徳のある仕事って何だろう

 

 では、最も徳のある仕事とは何でしょうか。

 

それは、「社会や他人の幸福に寄与する仕事」というのですから、単に利益を追求するような仕事ではないというのは確かです。

 

 ということは、公務員でしょうか。

 

公務員」とは、憲法でも「全体の奉仕者」と定められていて、彼らは公共の利益や社会福祉、社会保障、治安維持などにおける仕事を行っています。

 

どの仕事内容も、私たちが安心安全に暮らすために必要不可欠なものです。

 

 しかし一方で、利己的な教職員もいるし、態度の悪い公務員さんもたくさんいます。

ですので、「最も徳のある仕事」であると言うにはまだ早そうです。

 

 では、第1次産業従事者でしょうか。

 

 第1次産業とは、農業、林業、漁業など、自然界から直接資源を採取・生産する産業のことです。

これらは人間が生きていくための「食料」や「資材」を供給する、社会の土台となる産業です。

 

 第1次産業の方がいらっしゃらなければ、僕たちは日々を生きていくことはできません

 

 しかし、そんな彼らの中にも、利益を追求するあまりに、環境や人体に有害な薬品を大量に使用して、生産をしている方たちもいます。

 よって、「最も徳のある仕事」とは、やはり決めかねます。

 

 では、芸能人やスポーツ選手、アーティストなどの社会的に有名な方でしょうか。

 

 彼らは、それぞれの分野において各々の才能を発揮し、日々のお茶の間を賑わせてくれています。

 

 しかし、やはり彼らの中にも、社会に対して悪影響を及ぼすような行動をする方もいらっしゃいますし、人々の生命活動に直接関わっている訳ではありません。どれに、彼らが表舞台で輝けるのは、たくさんの裏方の方のサポートがあってこそです。

 

 よって、やはりこれも、「最も徳のある仕事」とは言えそうにありません。

 

 では一体、「最も徳のある仕事」とは何なのでしょうか。

 

 

そこで、気が付いた

 

 そこで、僕は気が付きました。

「最も徳のある仕事」など、存在しないのだと。

 

 そして、「徳のある仕事」かどうかを決めるのは、「職種」ではなく、「人」なのだと。

 

 要するに、「徳のある人」が行う仕事こそが、「徳のある仕事」となるのです。

 

 ですからみなさん、世のため人のためとなるような仕事に就きたいのであれば、そのような仕事を探すのはもうやめてください。

 

 あなたが「徳のある人間」になれば、あなたの行いの全ては世のため人のためのものとなり、

あなたの行う仕事は全て、「徳のある仕事」となるのですから。

 

 

 

 本日も記事をお読みになってくださり、本当にありがとうございます。

読者のみなさんに、この混沌とした世の中で「幸せ」に生きるための気づきを何か少しでも提供できるよう、ベストを尽くして書いていきますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 こんにちは。おれ。の経世済民会です。

本日も記事をご覧いただきまして、ありがとうございます。

 

 本日は、前回の記事(数学と論理性の関係について | おれ。の経世済民会)の補足としての内容を、書いていこうと思います。

 

 前回の記事では、様々な分野における、数学という概念の定義を調べ、数学=論理であるということを証明しました。

 

 しかしこれが、論理=数学というのは成り立たないというのが僕の考えです。

 

 そこで今回は、なぜ論理=数学ではないのかについてを考察していき、さらに厳密な数学と論理の関係について述べていこうと思います。

 

 

論理=数学ではない理由

 

 論理というものは、何度も言うように、

原因と結果(理由と結論)のつながりを明確にする筋道」のことを言います。

 

 言わば数学というのは、論理を、数式という言語を用いて行うものであると言えます。

 

 しかし、論理というのは、数学以外でも用いられます。

 

 例えば、文章構成というのは、自然言語を対象として行う論理的行為です。

 

 僕がこのように書いている文章も、論理性というのを意識して書いています。

読み手が納得できるように、文章における理由と結論のつながりを大切にして書いているので、文章構成というのも論理の一つであると言えます。

 

 他にも、警察などが行う、事故検証(実況身分)なども、事象というものを対象に行う論理的行為です。

 

 事故が起きたという事実の原因を突き止めるために、現場にある様々な事象に対して因果関係をつけるという行為をしているためです。

 ですから、警察が行うような事故検証は、論理の一つであると言えます。

 

 よって、数学と論理の関係をわかりやすくすると、下図のようになります。

 

 

 このように、数学というのは、あくまで数式を用いて行われる論理的行為であり、数学以外にも、論理的行為というのはたくさん存在しています

 

 したがって、厳密に言うと、論理と数学の関係とは、

 

    論理⊃数学 であり

 

    論理≠数学 であると言えるのです。

 

 

しかし、数学というのが、究極の論理的行為である

 

 しかし、論理≠数学であるというのは間違いないですが

数学というのは、究極の論理的行為であると言えます。

 

 なぜなら、事象や文章、日常における意思決定などというのは、どれだけ論理的行為であっても、必ず主観を含む一方で、数学というのは、数という概念で行う以上、必ず主観を省かれるからです。

 

 ですから、数学というのは、主観(その人の考える価値)を完全に省いた、純度100%の論理的行為であるからこそ、究極の論理的行為であると言えるのです。

 

 だからこそ、一般的には数学=論理として考えられているし、僕自身も、論理性を大きく養いたいのであれば、数学を行うべきだと考えているのです。

 

 しかし、人生には、論理以上に大切にすべき概念があります。

近々、それについても記事を書いていこうと思います。

 

 

 

 本日も難解かつ複雑な記事をお読みになってくださり、本当にありがとうございます。
読者のみなさんに、この混沌とした世の中で「幸せ」に生きるための気づきを何か少しでも提供できるよう、ベストを尽くして書いていきますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 こんにちは。おれ。の経世済民会です。

本日もブログをご覧いただきまして、誠にありがとうございます。

 

 実は僕は、去年(2024年)の春から夏にかけてもブログを書いておりました。

それを第一期とするのであれば、第一期のブログ記事は全部削除してしまっていました。

 

 しかし、近頃、第一期の一部のブログ記事の原稿を見つけまして、読み返すとなかなか良いなと思ったので、「過去ブログ」というカテゴリーで復活させることにしました。

 

 今回はそんな過去ブログシリーズの第一弾です。

 

導入

 

 今回は、野球の分野におけるスピードガンという具体例を交えて、現在僕たちの生活のあらゆるところに存在する、客観的指標・客観的価値について、そして「体感の重要性」について、僕の考えを述べていきたいと思います。

 

出ました160キロ!

 

 現在野球界では、スピードガンにおける、投手の球速計測・及び球速表示が話題を集めています。

 

「〇〇選手が自己最速の160km/hを記録!」、「話題の高校生150km/h右腕!」など、メディアでも大きく取り上げられています。

 

 野球場では、一球ごとに球速表示がされたりして、野球ファンの歓声を集めたりしています。

実際に野球の現場でも、スピードガンによる球速測定は積極的に取り入れられています。

 

 それ程、現在の野球界において、スピードガンによる球速測定というのは大きく浸透しているのです。

 

 

勝負中におけるスピードガンの必要性

 

 僕はこれまで長い間、野球をやってきました。

そんな僕が、野球選手としてスピードガンという要素について少し語りたいと思います。

 

 確かに、スピードガンにおける球速表示は、相手投手の事前情報にもなり、手掛かりを知るための一つの目安になります。

 

 しかし、このスピードガンという要素は、投手対打者という野球の中心とも言える勝負の中では、全く必要のないものなのです。

 

 なぜなら、打者目線で言えば、打つのはスピードガンではなく、来た球だからです。

(今回は主に打者目線で書いていこうと思います。)

 

 打者というのは、勝負中において、投手の球の速さを、スピードガンという客観的数値をもとに認知している訳ではありません。体感で認知しているのです。

 

 要するに、打者が投手の球の速さを認知するのは、スピードガンではなく、打席に入った時の体感速度と呼ばれるものなのです。

 

 スピードガンの数値が高くても、打席に入った時の体感速度が速くなければ打者は怖いとは思いません。

 

 逆に、スピードガンの数値が低くても、体感速度が速ければ、それは打者にとって脅威となるのです。

 

 

大事なのは「体感」!

 

 確かに、前にも述べたように、スピードガンは投手の能力の目安として認識できますし、野球ファンを盛り上げる事のできる要素を持っていると思います。

 

 しかし、本質的な球速というのは、体感に現れるのです。

 

 昨今では、スピードガンの注目がかなり盛んになっていますが、本質を言うと、球速というのは、まず体感ありきなのです。

それについての見識が、まだ充分に世間に浸透していないように見受けられます

 

 しかしこれは、何も野球に限った話ではありません

 

 今の社会全体として、物事を客観的指標化・数値化したり、あるいはそれによって分類したりして物事を見ようとする傾向というのが強くなっています

 

 そしてそれは、人を見る場合においてもそうです。

 精神病と言われるものへの名前の激増や、性格診断と呼ばれるものが台頭してきたりしていますが、それらはこのような傾向が顕著に表れている例です。

 

 それ以前にも僕らは、学歴・年収・職・配偶者の有無などの客観的要素で人を見る癖が付いています。

 

 だからと言って、それらが全く必要無い訳ではありません。今の社会において、必要である場合も多くあるし、その人の中身がそのような客観的要素に表れる場合もあるでしょう。

 

 しかしやはり、その人を知るための一番の大きな要素は、リアルで会った時の体感なのです。

今の社会においては忘れられがちですが、体感というのは、どのような場合でもかなり重要な要素になるのです。

 

 何度も言いますが、客観的要素が全く必要ない訳ではありません。

 

 しかし、物事においてそれらに囚われすぎて、本質が見えていない人がたくさんいます。

 

 体感を大事にしてください。

 

 

 

 本日も記事をお読みになってくださり、本当にありがとうございます。

読者のみなさんに、この混沌とした世の中で「幸せ」に生きるための気づきを何か少しでも提供できるよう、ベストを尽くして書いていきますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 こんにちは。おれ。の経世済民会です!

本日も記事をご覧いただきまして、誠にありがとうございます!

 

 前に、数学についての記事を二本書いたと思います。

数学の楽しさは問題を解くことではない | おれ。の経世済民会数学の楽しさは、「〇〇を創る」ことである | おれ。の経世済民会

 

 この後者の記事の最後に、数学という教科を勉強することで、論理性が大きく身に付くと、僕は述べました。

 

 そこで、今回の記事は、数学と論理性の関係について、僕の考察を前回よりも深く述べていこうと思います。

 

※この先は、前回の数学に関連した二本の記事をご覧になってからお読みいただいたほうが、より一層理解が深まります!

 

 

まず、論理性とは?

 

 では、まず論理性とは何かについてを理解していきましょう。

 

 前回も説明した通りですが、論理とは、

「なぜ~なのか、それは…だから」という考え方の道筋の事を言います。

 

 言い換えると、「原因と結果(理由と結論)のつながりを明確にする道筋」の事です。

 

 よって、論理性というのは、このような論理的な考え方を持った性質のことを指します。

 

 

では、数学とは何だ?

 

 では、次に、数学とは何かということについて、考えていきましょう。

 

 しかし、いきなり「数学とは何か」と問われても、あまりに概念が抽象的過ぎます。

哲学的な意味なのか、教科に限った定義なのか、体系分野としてなのか、

「数学」という言葉だけだと、定義があまりにも大きく分かれてしまいます。

 

 ですからここで、まずは「数学的思考」について考えていきましょう。

「数学的思考」という言葉は、学生時代の数学の成績における評価分野の一つでもあり、お馴染みの言葉ではないでしょうか。

 

 哲学だろうが、教科としてであろうが、体系分野としてであろうが、「数学」を行っている際は、必ず「数学的思考」というものをしているはずです。だって、「数学」をしているのですから。

 

 という訳で、「数学的思考」とは何なのか。考えていこうと思います。

 

 

「数学的思考」とは何だ?

 

 文部科学省お公式文書である、「中学校学習指導要領解説 数学編」において、文部科学省は、数学を学ぶ核心として、以下のように明記しています。

 

 ー 「数学的な見方・考え方」とは、事象を数理的な側面から捉え、論理的に筋道を立てて考えることである。 

  (出典:文部科学省 中学校学習指導要領解説 数学編 第1章 総説)

 

 つまり、「数学的思考=論理的思考」であることが、数学教育における定義なのです。

 

※ちなみに、高等学校学習指導要領解説にも同様のことが書いてあります。

 

 

改めて、数学とは?

 

 また、OECD(経済協力開発機構)による、PISA調査(世界100ヵ国以上が参加する学力調査)の基準によると、

数学力とは、数学的推論である」と述べられており、

それはつまり、「論理的なステップを踏んで結論を導く力」であると定義しています。

(出典:国立教育政策研究所 PISA2022の概要)

 

 さらに、紀元前300年、古代ギリシアの数学者として活躍したユーグリットが、著書「原論」において

数学とは、「少数の公理から論理(証明)のみによって真理を導き出す体系」であることを確立させて以来、数学という学問は、2300年にわたり、「純粋な論理性を磨くための学問」として発展してきたという歴史があります。

 

 したがって、教科の定義にしても、世界レベルでの体系分野としての定義にしても、歴史や哲学、学問としての定義にしても、

必ず、数学=論理であるということが成り立ちます。

 

 よって、すなわち数学という概念は、必ず論理性をはらんでいるという関係になるのです。

 

 だからこそ、数学という科目を勉強すると、論理性が大きく身に付くのです。

 

 

関連記事:数学と論理性の関係について(補足) | おれ。の経世済民会

 

 

 本日も記事をお読みになってくださり、本当にありがとうございます。
読者のみなさんに、この混沌とした世の中で「幸せ」に生きるための気づきを何か少しでも提供できるよう、ベストを尽くして書いていきますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 

 こんにちは。おれ。です。

本日も記事をご覧いただきまして、誠にありがとうございます。

 

 今回は、前回投稿した、「『勉強』という言葉に終止符を打ちたい」という記事の続きを書いていこうと思います。

 

※前回記事をお読みでない方は、先にこちらをお読みください。:「勉強」という言葉に終止符を打ちたい | おれ。の経世済民会

 

 前回は、日本人の多くが、なぜ「勉強」という言葉を苦痛に感じるのかを、「勉強」という言葉の観点から考察し、また、「勉強」と「study」という言葉のニュアンスの違いについても説明しました。

 

 今回の記事は、それらの考察を踏まえた上で、「言葉の違いにおける、学習意欲の影響」というテーマから、記事を書いていこうと思います。

 

 よろしくお願いします!

 

 

 言葉の違いにおける、学習意欲の違い

 

 ここで、興味深いデータを紹介します。

 

 日本人の生涯学習意欲というのは、英語圏の人たちよりもやはりかなり低い水準にあるのです。

 

 この結果には、様々な要因があると考えられますが、今回の記事の題材でもある、「学習」という意味で一般的に使われている言葉のニュアンスの違いという点が、大きく関係していると僕は思います。

 

 前回書いたように、「勉強」という言葉には、「自分に対して無理に負担をかける」というニュアンスが含まれており、そこから多くの人は、「勉強」という言葉から「苦痛」という感情を想起するのです。

 

 一方、「study」という言葉には、「情熱」や「意欲」というニュアンスが含まれており、実際に英語圏の人たちは、この言葉を「探求」や「成長」など、前向きな言葉として認識しているようです。

 

 この違いが、日本人と英語圏の人たちの生涯学習意欲の違いを示していると考えられるのです(下グラフ)。

 

[グラフ] OECD「Treads in Adult Learning(2025)」

    成人の学習参加率(過去12か月間の非公式な仕事関連学習)

       ※OECD =経済協力開発機構

     ※=英語圏の国

 

 このグラフからわかるように、ノルウェーやフィンランドといった北欧諸国、そして米国・英国・カナダといった英語圏の国々では、成人の約半数が非公式な仕事関連学習に参加していることがわかります。

 

 一方、日本や韓国は参加率が約13%とOECD平均を大幅に下回っており、生涯学習の参加意欲の違いが、統計データに明確に表れています。

 

 英語圏の人々が、このように成人になっても持続的に学習を行っているのは、学習というものを「study」という前向きな言葉として捉えているからであり、自身の内発的な動機により学習を行う習慣が根付いているからだと言えます。

 

 これに対して、日本や韓国のように、学習を強制されるものとして認識していると、生涯的に持続して学習を継続させることは難しいと言えるのです。

韓国は、世界屈指の学歴主義社会で、成人の学習意欲が低いのは、大学入試までの熾烈な競争による反動によるものだと推察できます。)

 

 

 今こそ、復活させるべき言葉

 

 では、このような事を踏まえた上で、今後僕たちはどのような事をしていけばよいのでしょうか。

 

 それはやはり、「勉強」という言葉を極力使わない方向に持っていき、別の言葉に置換することだと思います。

 

調べてみると、「勉強」という言葉が現在のような意味として用いられるようになったのは、明治時代中頃であるようです。

 

 では、それ以前の時代では、学習することの意味として、どのような言葉が一般的に用いられていたのでしょうか。

 

 

 それは、「学問」です。

 

 僕は、「学問」という言葉はとても素晴らしい言葉だと感じており、今こそ復活させるべき言葉であると考えています。

 

 それは、前回のブログ(「学問」をしていますか? | おれ。の経世済民会)にも書いた通りですが、

「学問」とは、「問いに学ぶ」という意味であり、「問いを持っている自分自身を問う」行為であるのです。

 

 ですから、「学問」とは、究極の自己探求であり、それそのものが哲学なのです。

 

 これは、日本語だからこそ示せる、言葉の奥深さであり、他の言語では示せない高尚さ、神秘さ持っている素晴らしい言葉だと思います。

 

 もし、日本が「勉強」という言葉に終止符を打ち、「学問」という言葉を復活させたとき、

 日本人における学習意欲の問題は、終わりを迎えるでしょう。

 

 

 本日も記事をお読みになってくださり、本当にありがとうございます。

読者のみなさんに、この混沌とした世の中で「幸せ」に生きるための気づきを何か少しでも提供できるよう、ベストを尽くして書いていきますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 こんにちは、おれ。です。

本日も記事をご覧いただきまして、誠にありがとうございます。

 

 今回は、「勉強」という言葉における僕の考察記事を書いていこうと思います。

 

 

 あなたにとって勉強とは?

 

 あなたは、「勉強」という言葉を聞いて、どのようなイメージを持つでしょうか。

 

 僕は、「気が引き締まる」ようなイメージを持っていました。

「勉強」することで、自身の可能性を見出す、成長する。

そのような信念を持って、自身の気を引き締め、実際に勉強してきました。

 

 しかし、多くの人は、「勉強」という言葉を聞くと、「苦痛だ、嫌だ」という感情を想起することがわかりました。

 

 確かに僕たちは、小学校に入学してから、納得した理由も大して聞かされずに、毎日のように「勉強」をさせられてきました。

実際に僕も、そのような毎日の中で、勉強が「苦痛だ」と感じたことはありました。

 

 そこで、なぜこんなにも多くの人が「勉強」=「苦痛」と感じているのか、その理由について,「勉強」という言葉の観点から、考察してみることにしました。

 

 「勉強」という言葉について

 

 「勉強」とは、単語を分解すると、「勉める(力を尽くす、努力するの意)ことを強いる」となります。

 

 

 ここで、大きな疑問があります。

 

 なぜ、「強いる」なのでしょうか。

 

 「勉強する」の主体者である僕たちは、誰に「強いる」のでしょうか。

「強いる」ということは、「強いられている」誰かが必ず存在するはずです。

 

 ここで一度、「強いる」という言葉の意味について考えてみましょう。

 

 「強いる」という言葉は、「他人の意思を無視して、無理に押し付ける」という意味です。

 

一体、「勉強する」の主体者である僕たちが、誰に対してこのような事を行っているというのでしょうか。

 

 

 そう。自分です。

 

 要するに、「勉強」というのは、「自分の意思を無視して、無理に自分に対して勉めることを押し付ける」という意味になります。

 

 即ち、「勉強」という行為は、「自分に不本意な行為や負担を強制したり、無理強いしたりすること」が前提となっている言葉なのです。

 

 だから、多くの人は、「勉強は苦痛である」という認識を強く持っているのです。

 

 しかし、「勉強」という言葉の中身をこのように分析すると、それは当然であると言えます。

 

 「Study」はどうか

 

 では、日本語で「勉強する」という意味に訳される、「study」という英単語のニュアンスはどのようになっているのでしょうか。

 

 調べてみると、studyという言葉は、前向きで、自発的な「情熱」や「意欲」が核となる意味を持つ言葉のようです。

 

 よって、studyという英単語を、ニュアンスを含めて日本語に直すと、「探求する」、「研鑽する」というような言葉になります。

 

 このような高尚なニュアンスの言葉を、英語圏の人たちは小学生の頃から認識して使っているのです。

 

 

 少し記事が長くなりそうなので、ここで一度終わりにして、次回に続きを書いていこうと思います。

次回は、この続きを「言葉の違いによる、学習意欲の影響」という項目から書いていきます。

どうぞよろしくお願いいたします。