ハイ、私の事です。
なぜ嫌いかというと、あまりにシンプルに世の中を捉えすぎているから。
あまりに単純化しすぎているから。
だってそうでしょう?
良い人が良いことをする⇒良いことが自分に返ってくる。
悪い人が悪いことをする⇒悪いことが自分に返ってくる。
確かにわかりやすいんだけど、実際はそんなワケない。
世の中はもっと複雑で理不尽で不合理なのだ。
良い人でも車に轢かれて死ぬし、悪い人に宝くじが当たることだってある。
というか、そもそも「良い人」「悪い人」って何だろう?
昔は夜遅くまでオフィスに残って働くことは「良い事」だった。
でも今は違うよね?残業は無能の証などと言われるようになり、ダラダラと非効率な仕事をしていると見なされるようになった。かつて「善」だったことが今や「悪」である。真逆ではないか。
あるいは、会社では良い人でも、家では悪い人かもしれない。仕事で成果を出すけど、家では全然家事を手伝わず、子供の面倒も見ない・・・こういう人間が昭和の時代には山ほどいた。彼らは良い人なのだろうか?悪い人なのだろうか?そんなの一概には言えない。上司からは良い部下だと評価されるかもしれないが、息子から見れば、ちっとも自分にかまってくれない悪い父親かもしれない。
上記の例のように、善悪なんて時代や立場によって簡単に変わるのである。ちゃんと物事をありのままに見るならば、そう簡単に善と悪を分けるわけにはいかないと気付くはずなのだ。
確かに、勧善懲悪ストーリーは分かりやすくて面白い。でもなぜ面白いかと言うと、複雑さを排除してバカにもわかるようにわかりやすくしているからである。物事の複雑さ、多様性、理不尽さを一切取り除いた結果なのだ。
子供用の絵本やアニメは大抵このパターンで、最後には悪いことをする奴が正義のヒーローに懲らしめられてしまうのだが、私はこういったものが子供たちに悪影響を与えているのではないか?と思える。勧善懲悪に触れ続けることで、単純に善悪を分ける癖が身についてしまい、複雑な人生をありのまま観察する目が育たなくなるのだ。
公正世界仮説という言葉がある。「良いことも悪いことも自分に返ってくる」と思いたがる人間の心理を表す言葉だ。自業自得や因果応報に近い言葉である。
幼い頃から勧善懲悪モノに触れていると、この手の認知バイアス(思い込み)が強くなってしまう。困っている人を見ても「何か悪いことをしたから罰が当たったのだろう」と思ってしまう。世の中の複雑さを一切無視した、単純な思考しかできなくなる。その結果、平気で弱者を切り捨てる人間になるかもしれない。
私は「不公正世界仮説」を唱えたい。
良いことをしても報われるとは限らないし、悪いことをしても何のお咎めもないかもしれない。
性格の良い子でも難病に罹るし、イジメっ子が幸福な人生をおくることもある。
よく考えれば当たり前のことなんだけど。ただ真実を見ようとしていないだけで。
もう「桃太郎が悪い鬼を退治しました、めでたしめでたし」的な話にはウンザリである。
子供の道徳教育に良いとされている絵本やアニメが、実は偏見と差別に繋がっている。
自己責任論を好む日本人にとって、公正世界仮説は相性がいいのだろう。
だから日本人は世界で一番人助けをしないのである。
そりゃそうだよね。悪い目に遭っている人は悪人なんだと教わってきたんだから。
小さい子供には「悪い大人になっちゃダメだ」と教えるのではなくて、「善悪を決定するのは難しい事」と「良い行いが必ずしも報われるとは限らない」事を教えるべきである。そして、困っている人を見たら(その人の日頃の行い如何に関わらず)助けろと言うべきである。
それから「悪いことをすると必ずバチが当たる」とか「そんなことをしたら神様の怒りに触れる」とか、その手の根拠のない脅し(?)も使うべきではない。そういった言葉は、いつの間にか自分の行いを戒める為の言葉ではなくなり、他人を裁く言葉に容易く変容してしまう。そして、弱った弱者をさらに追い詰める。こうして日本はますます生きづらい世の中になっていく。
災害時に避難所に入る事を拒否されたホームレスに「好きでホームレスをやっているんだろ」と言い、レイプの被害者には「お前がそんな恰好で相手を誘うからだ」と言い、生活保護者には「本当に努力しているのか」と疑いのまなざしを向ける。異常な国だとしか言いようがない。
でもそういう冷たい人間を生み出しているのは、間違いなく日本の教育なのだ。
ちなみに、鬼滅の刃が面白い理由の一つは、ちゃんと鬼側の事情を描いている点にある。
もし鬼をただただ「悪い奴」で終わらせてしまったら、ちっとも物語に深みは出なかったと思う。
ってことで、子供の教育に、ぜひ鬼滅を見せましょう(強引なまとめ)