ルーマニアの思想家、エミール・シオランの言葉を紹介したい。

彼の著書「生誕の災厄」は人間の真理をズバリ言い当てた名言が多いのだ。

 

 

①あらゆる罪を犯した。父親となる罪だけは除いて(10P)

 

②「しかし神は、あなたがたがその実を食べる日、あなたがたの双の眼が明くことを知っておられる」眼が明いたとたん惨劇がはじまった。理解せずに見ること。それこそが楽園である。したがって地獄とは、人間が理解する場所、理解しすぎる場所のことだ。(40P)

 

③人は誰でも、むろん無意識のうちにだが、自分だけが真理を追っていると信じ、ほかの人間は真理を求める能力がない、真理に到達する資格がないと信じている。この愚かな思い込みは、きわめて根が深く、また実益に富むので、いつの日かこれが消滅でもしようものなら、私たちひとりひとりに何が起きるか、想像することさえ不可能だ。(53P)

 

④もし私たちが、他人の眼で自分を見ることができたなら、私たちは即座に消えてなくなるにちがいない。(61P)

 

⑤その居酒屋は、村はずれにある養老院の老人たちが溜りにしている店だった。老人たちはそこで、片手にグラスを持ち、お喋りもせずにたがいの姿を眺めあっていた。そのうちにひとりが、なんだがよく分からないが、可笑しみを狙ったらしい話をはじめた。誰も聞く者はいない。少なくとも誰ひとり笑わない。老人たちはみな、こうしたところまで落ちるために、あくせくと働いてきたのだ。田舎では昔、枕を使って老人を窒息させたものだという。懸命な処置であり、各家庭がそうした流儀に磨きをかけていた。老人たちを寄せ集め、柵の中に閉じこめ、退屈を救ってやったあげく痴呆状態に追いこむのよりは、はるかに人間らしい手立てではないか(85P)

 

⑥同一の主題について、同一の出来事について、一日のうちに私は十回も、二十回も、三十回も意見を変えることがある。しかもそのたびに、まるで最下級の詐欺師のように、私はあつかましくも≪真実≫という言葉を発するのだ!(97P)

 

⑦人間が鮮明に思い出せるのは苦難だけなのだから、病人や被迫害者、あらゆる領域での犠牲者たちこそ、結局のところ、最大の利益を得つつ生きたことになる。それ以外の、幸運に恵まれた連中は、たしかに一個の生涯を生きるけれども、その生涯の「追憶」というものを持つことはない(104P)

 

⑧自分が現にあるとおりの者であるゆえに自殺するのはよい。だが、全人類が顔に唾を吐きかけてきたからといって、自殺すべきではない。(128P)

 

⑨責任という問題は、出生以前に私たちが相談を受け、現在ただいまそうあるごとき人間になってよい、と同意したのでなければ、そもそも意味を持ちえないはずである。(131P)

 

⑩毎日、つぎのように繰り返すべきである。「自分は、地球の表面を何十億と匍いまわっている生きものの一匹だ。それ以上の何者でもない」――この陳腐な呪文は、どんなたぐいの結論をも、いかなる振舞い、いかなる行為をも正当化する。遊蕩も、純潔も、自殺も、労働も、犯罪も、怠惰も、反逆も。……かくて、人間は各自、みずからの仕業にそれ相当の理由を持つことになる。(158P)

 

細かい解説は不要だろう。(シオラン自身がそういうのを嫌っているようだ)ご自身で解釈し味わっていただきたい。

第二弾もそのうちやります。

 

 

生誕の災厄(1976) 著:E・Mシオラン 訳:出口裕弘 紀伊國屋書店